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聖徳太子 「大凶変じて一元に帰す」今年は1400回忌

2021-07-03 09:03:16 | 歴史

https://www.asahi.com/articles/ASP3V5RTKP3QPOMB01H.html

至るところに聖徳太子 1400年、奈良に紡がれる信仰

渡辺元史、清水謙司

 

聖徳太子の実像~1400年遠忌 謎多き偉人

 

https://www.asahi.com/articles/ASP3V5RTKP3QPOMB01H.html

 聖徳太子ほど多くの伝説をもつ偉人はいないだろう。太子を観音の化身と仰ぐ太子信仰の広まりとともに、さまざまな太子像が全国各地につくられた。今年は太子の1400回忌。奈良県内に残る太子像を通して、太子の生涯をたどる。

6世紀、この国の中心は奈良・飛鳥にあった。574年、用明天皇を父に、蘇我一族の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女を母に、太子が生まれた。厩戸(うまやど)の前だった。

 2歳のとき、東を向いて合唱し、南無仏と唱えたとの伝承が残る。その姿を表したのが国源寺観音堂(橿原市)の「南無仏太子像」だ。神武天皇陵に近い住宅街にあり、ふだんは非公開。地元・大久保町自治会の人たちが管理している。

 この太子像は上半身が裸で、ふっくらしている。頭部の内側にある墨書銘から、鎌倉後期の1302年の作とされる。つくられた年代が明らかで、国内に現存する南無仏太子像では最古という。

14歳のころには、豪族の物部氏と蘇我氏の争いが続いていた。仏教の受け入れに反対した物部守屋に対し、蘇我馬子は積極的だった。馬子についた太子は合戦の地に向かう途中、戦勝祈願した。毘沙門天があらわれ、この戦に勝利したと伝わる。太子は、信ずべし貴ぶべき山として、この地を「信貴山(しぎさん)」と名付けたという。

 信貴山の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)(平群町)には、馬にまたがり、横笛を吹く「聖徳太子騎乗像」がある。よろいに身を包んだ出陣前の姿だ。つくったのは彫刻家の北村西望さん。長崎市平和公園にある平和祈念像を手がけたことで知られている。

 16歳のとき、父の用明天皇が床に伏した。太子は日夜看病し、香炉を捧げて祈った。一心に病気平癒を願う太子像は「孝養像」と呼ばれる。その一つが金峯山寺(きんぷせんじ)(吉野町)にまつられている。少年の髪形の角髪(みずら)を結い、目尻の上がった表情は、きりっとしている。

 修験道の聖地である金峯山寺に、なぜ、太子像が伝わっているのか。

 金峯山寺の文化財主任の池田淳さんによると、鎌倉時代の1272年、太子を信仰していた叡尊(えいそん)らが吉野で布教した。真言律宗の総本山の西大寺奈良市)を復興した僧侶だ。実は、この孝養像のなかに経典が納められ、そこに叡尊の弟子の名前が記されていた。池田さんは「この孝養像は、叡尊らが吉野で布教したことを残すためにつくられたのだろう」とみる。

 593年、推古天皇が即位し、太子は摂政になった。仏教を中心とした国づくりを進めた。飛鳥から離れた斑鳩の地に斑鳩宮をつくり、黒駒という名前の馬に乗って飛鳥に通ったとされる。冠位十二階十七条憲法を定め、小野妹子遣隋使として派遣した。推古天皇に勝鬘経(しょうまんぎょう)などの経典を説き、注釈書を記した。法隆寺四天王寺を開いた。

 40歳のころの太子には「飢人伝説(きじんでんせつ)」が残る。舞台となるのは達磨(だるま)寺(王寺町)だ。太子の飼い犬だったと言い伝えられる雪丸の墓もある。

 613年、この付近を通りかかった太子の前に、飢えた人が現れた。太子は食べ物を与え、衣服をかけて助けたが、飢人は亡くなった。太子は墓をつくり、葬った。しばらくして墓を開けると、遺体はなく、衣服が棺の上にたたんで置いてあった。この飢人は、禅宗の始祖・達磨大師だったと考えられるようになった。

 この墓の上に達磨寺がたつと伝わる。本堂の下から古墳時代後期の円墳がみつかっている。本尊の木造聖徳太子坐像(ざぞう)(国重要文化財)は、この飢人伝説をもとに鎌倉時代につくられた。

 621年12月、太子の母が亡くなった。翌22年1月、太子と妻が病に倒れた。2月21日に妻が息を引き取り、翌22日に太子が逝去した。49歳だった。疫病とも言われている。

梅原猛の「隠された十字架、法隆寺編」には太子一家が物部によって暗殺されたと詳細に書かれています。妻は残りました。ほほ笑みの弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう、みろくぼさつはんかしいぞう)のある中宮寺で妻の残した太子が天空に帰る刺繍が残され、祀られています。妻の血族が妻をのこしたそうです。一家暗殺の後、物部氏は多くの男子を相次いで病などによって亡くした為に、太子の怨霊によるものとオソレていたとあります。アイリス)

 日本書紀聖徳太子伝暦(でんりゃく)、それぞれの寺の伝承などをもとにまとめたが、太子の生涯には諸説ある。

 太子像に詳しい石川知彦・龍谷大龍谷ミュージアム副館長(学芸員)は「太子は日本における仏法の開祖として、仏教の開祖である釈迦(しゃか)になぞらえられてきた。これほど多くの祖師像がつくられた人物はいない」と話している。

 

https://www.touken-world.jp/tips/18231/ には

聖徳太子の預言書によると「大凶変じて一元に帰す」と書かれているとあります。

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♬残念なことに、太子が広めようとした仏教にも、その後ヤミが存在して、それは空海の密教として今では知られています。

これは釈迦佛教ではないのです。経典を知るとまさにヤミによる佛教です。

日本での仏教文化はこうして、分割して今に至っています。

  http://kawata2018.com/2019-01-31/  

http://rapt-neo.com/?p=24188

下のRAPTはグーグルでは探すのが大変な状態に今なっています。

 

高野山異聞)「誰がまつられているのですか」:朝日新聞デジタル

奥之院にある「弘法大師御廟(ごびょう)」。空海はいまも、ここで深い瞑想(めいそう)に入っていると信仰され、毎朝6時と10時半の2回、食事が供えられる。「生身供(しょうじんく)」という儀式だ。

https://www.asahi.com/articles/ASL6D64Z3L6DPTIL038.html

♬高野山の僧侶の衣はダライラマの衣の色と同じですね。今日気づきました。そして、写真の「生身供」って、この中身は一体何が入っているのでしょう。

普通のご膳が入れられている日もあるかもしれませんが、別の物を入れて運ぶこともあるのかもしれません。カモフラージュができる大きさです。

高野山には、地下室もあります。公開されているのですが、他にもある可能性もあります。

 

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