https://www.asahi.com/articles/ASP3V5RTKP3QPOMB01H.html
至るところに聖徳太子 1400年、奈良に紡がれる信仰
聖徳太子の実像~1400年遠忌 謎多き偉人
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聖徳太子ほど多くの伝説をもつ偉人はいないだろう。太子を観音の化身と仰ぐ太子信仰の広まりとともに、さまざまな太子像が全国各地につくられた。今年は太子の1400回忌。奈良県内に残る太子像を通して、太子の生涯をたどる。
6世紀、この国の中心は奈良・飛鳥にあった。574年、用明天皇を父に、蘇我一族の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女を母に、太子が生まれた。厩戸(うまやど)の前だった。
2歳のとき、東を向いて合唱し、南無仏と唱えたとの伝承が残る。その姿を表したのが国源寺観音堂(橿原市)の「南無仏太子像」だ。神武天皇陵に近い住宅街にあり、ふだんは非公開。地元・大久保町自治会の人たちが管理している。
この太子像は上半身が裸で、ふっくらしている。頭部の内側にある墨書銘から、鎌倉後期の1302年の作とされる。つくられた年代が明らかで、国内に現存する南無仏太子像では最古という。
14歳のころには、豪族の物部氏と蘇我氏の争いが続いていた。仏教の受け入れに反対した物部守屋に対し、蘇我馬子は積極的だった。馬子についた太子は合戦の地に向かう途中、戦勝祈願した。毘沙門天があらわれ、この戦に勝利したと伝わる。太子は、信ずべし貴ぶべき山として、この地を「信貴山(しぎさん)」と名付けたという。
信貴山の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)(平群町)には、馬にまたがり、横笛を吹く「聖徳太子騎乗像」がある。よろいに身を包んだ出陣前の姿だ。つくったのは彫刻家の北村西望さん。長崎市の平和公園にある平和祈念像を手がけたことで知られている。
16歳のとき、父の用明天皇が床に伏した。太子は日夜看病し、香炉を捧げて祈った。一心に病気平癒を願う太子像は「孝養像」と呼ばれる。その一つが金峯山寺(きんぷせんじ)(吉野町)にまつられている。少年の髪形の角髪(みずら)を結い、目尻の上がった表情は、きりっとしている。
修験道の聖地である金峯山寺に、なぜ、太子像が伝わっているのか。
金峯山寺の文化財主任の池田淳さんによると、鎌倉時代の1272年、太子を信仰していた叡尊(えいそん)らが吉野で布教した。真言律宗の総本山の西大寺(奈良市)を復興した僧侶だ。実は、この孝養像のなかに経典が納められ、そこに叡尊の弟子の名前が記されていた。池田さんは「この孝養像は、叡尊らが吉野で布教したことを残すためにつくられたのだろう」とみる。
593年、推古天皇が即位し、太子は摂政になった。仏教を中心とした国づくりを進めた。飛鳥から離れた斑鳩の地に斑鳩宮をつくり、黒駒という名前の馬に乗って飛鳥に通ったとされる。冠位十二階や十七条憲法を定め、小野妹子を遣隋使として派遣した。推古天皇に勝鬘経(しょうまんぎょう)などの経典を説き、注釈書を記した。法隆寺や四天王寺を開いた。
40歳のころの太子には「飢人伝説(きじんでんせつ)」が残る。舞台となるのは達磨(だるま)寺(王寺町)だ。太子の飼い犬だったと言い伝えられる雪丸の墓もある。
613年、この付近を通りかかった太子の前に、飢えた人が現れた。太子は食べ物を与え、衣服をかけて助けたが、飢人は亡くなった。太子は墓をつくり、葬った。しばらくして墓を開けると、遺体はなく、衣服が棺の上にたたんで置いてあった。この飢人は、禅宗の始祖・達磨大師だったと考えられるようになった。
この墓の上に達磨寺がたつと伝わる。本堂の下から古墳時代後期の円墳がみつかっている。本尊の木造聖徳太子坐像(ざぞう)(国重要文化財)は、この飢人伝説をもとに鎌倉時代につくられた。
621年12月、太子の母が亡くなった。翌22年1月、太子と妻が病に倒れた。2月21日に妻が息を引き取り、翌22日に太子が逝去した。49歳だった。疫病とも言われている。
(♬梅原猛の「隠された十字架、法隆寺編」には太子一家が物部によって暗殺されたと詳細に書かれています。妻は残りました。ほほ笑みの弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう、みろくぼさつはんかしいぞう)のある中宮寺で妻の残した太子が天空に帰る刺繍が残され、祀られています。妻の血族が妻をのこしたそうです。一家暗殺の後、物部氏は多くの男子を相次いで病などによって亡くした為に、太子の怨霊によるものとオソレていたとあります。アイリス)
日本書紀や聖徳太子伝暦(でんりゃく)、それぞれの寺の伝承などをもとにまとめたが、太子の生涯には諸説ある。
太子像に詳しい石川知彦・龍谷大龍谷ミュージアム副館長(学芸員)は「太子は日本における仏法の開祖として、仏教の開祖である釈迦(しゃか)になぞらえられてきた。これほど多くの祖師像がつくられた人物はいない」と話している。
https://www.touken-world.jp/tips/18231/ には
聖徳太子の預言書によると「大凶変じて一元に帰す」と書かれているとあります。
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♬残念なことに、太子が広めようとした仏教にも、その後ヤミが存在して、それは空海の密教として今では知られています。
これは釈迦佛教ではないのです。経典を知るとまさにヤミによる佛教です。
日本での仏教文化はこうして、分割して今に至っています。
http://kawata2018.com/2019-01-31/
下のRAPTはグーグルでは探すのが大変な状態に今なっています。
奥之院にある「弘法大師御廟(ごびょう)」。空海はいまも、ここで深い瞑想(めいそう)に入っていると信仰され、毎朝6時と10時半の2回、食事が供えられる。「生身供(しょうじんく)」という儀式だ。
https://www.asahi.com/articles/ASL6D64Z3L6DPTIL038.html
♬高野山の僧侶の衣はダライラマの衣の色と同じですね。今日気づきました。そして、写真の「生身供」って、この中身は一体何が入っているのでしょう。
普通のご膳が入れられている日もあるかもしれませんが、別の物を入れて運ぶこともあるのかもしれません。カモフラージュができる大きさです。
高野山には、地下室もあります。公開されているのですが、他にもある可能性もあります。