エックハルト・トール「ニューアース」より
目覚め・・・・・・・・・・・・・・P278
目覚めとは意識の変化であり、その変化した意識のなかで思考と気づきが分離する。ほとんどの人にとって、これは一度限りの出来事ではなくて過程、プロセスとして訪れる。突然の劇的で不可逆的な目覚めを体験する人も稀にはいるが、そういう人達でも実は新しい意識状態が徐々に流れこんですべての行動が変化し、その意識状態が人生に取り込まれて行くプロセスを経験しているはずだ。
目覚めると、思考に呑み込まれて自分を失うことがなくなる。思考の背後にある気づきが自分だとわかる。すると思考はあなたを振り回して指図する利己的で自律的な活動ではなくなる。思考の代わりに気づきが主導権を握る。思考はあなたの人生の主役ではなくなり、気づきに仕えるようになる。目覚めとは、普遍的な知性と意識的につながることだ。言い換えれば、「いまに在る」こと、思考無しの意識である。
目覚めのプロセスは一つの恩寵として始まる。自分で起こす事は出来ないし、そのための準備をしたり、そのために功績を積み重ねていくこともできない。きちんと段階をふんでいけば到達できるというものではないのだ、もしそうなら精神は大喜びだろうが、そのために相応しい人間にならなければいけないと言うものでもない。目覚めのプロセスの恩寵は、聖人より先に罪人に訪れるかもしれないが、しかし必ずしもそうだというものでもない。だからこそ、イエスは尊敬出来る人々だけでなく、あらゆる人々とつきあった。
目覚めに関してあなたにできることは何もない。何かしようとしても、それは目覚めや悟りを価値ある所有物として獲得し、自分をもっと重要に大きく見せようとするエゴの試みになってしまうだろう。
目覚める代わりに目覚めという「概念」を精神に付け足すか、目覚めた人や悟った人はこうだろうというイメージを描き、そのイメージ通りに生きようとするだけになる。自分や他人のイメージに合わせて生きることは、真正な生き方ではない。これもエゴの無意識が演じる役割にすぎない。
目覚めるために自分で出来ることはなくて、それはすでに起こっているかこれからおこるかのどちらかであるなら、どうして目覚めることが人生の第一義的な目的になりえるのか?目的とはそれに向かってなにか行動できることのはずではないか?
最初の目覚め、思考抜きの意識を一瞬であれ垣間見る事、それだけがあなたの側の行為といっさい関わりなく恩寵として起こる。本書がちんぷんかんぷんだ、わけがわからないとお思いなら、あなたはまだ目覚めを体験していない。しかしあなたの中で何かが、反応するならなるほどそうだと感じるなら、すでに目覚めのプロセスは始まっている。プロセスが一旦始まれば、エゴに邪魔されて遅れることはあっても後戻りすることはない。
本書を読むことでプロセスが始まる人もいるかもしれない、また本書がきっかけですでにプロセスが始まっていることに気づき、それを加速、強化する人もいるだろう。さらに、本書を読んで、自分の中にエゴがあって自分で自分を支配しようとしたり、目覚めを邪魔しようとしたりしていると気づく人もいると思う。人によっては、いままでずっと自分と同一化してきた習慣的な思考、とくにしつこいネガティブな思考に、ハッと気づくことから目覚めが始まる。思考に気づいていて、しかもその思考の一部ではない意識が不意に目覚める。
目覚めと思考はどんな関係にあるのだろう?目覚めとは空間で、その空間が自らに気づいた時、その空間に思考が存在することがわかる。
目覚めあるいは「いまに在る」ことは、わかる人には直接的な体験として生じる。もう単なる精神的な概念ではない。そうなると無益なしこうに耽(ふけ)るのではなく、「いまに在る」ことを意識的に選択できるようになる。「いまに在る」ことを人生に招きいれる、言い換えれば空間を作ることが出来る。目覚めの恩寵には責任が伴う。何事もなかったように生きて行くこともできるし、目覚めの意義を理解して、自分の人生に起こった最も重要な出来事だと認識することも出来る。それは自分で決めることだ。後者であるなら、現れた意識にむかって自分を開き、その光をこの世界に伝えることが人生の第一義的な目的になるだろう。
「私は神の心が知りたい」とアインシュタインは言った。「残りは瑣末なことだ」と。神の心とは何か?意識である。神の心を知るとはどういうことか? 目覚めることである。瑣末な事とは何か? 外部的な目的 外部世界で起こるすべてである。
したがって、あなたが人生に何か意義のあることが起こらないかと待っているとき、実は人間に起こり得る最も有意義なことがすでに自分の中で起こり、思考と気づきの分離のプロセスが始まっていることに気づいていないのかもしれない。
目覚めのプロセスの初期段階にある人達の多くは、自分の外部的な目的が何なのかわからなくなる。世界を動かしているものには動かされなくなる、現代文明の狂気がはっきりと見えて、周囲から浮き上がったと感じるかもしれない。二つの世界を隔てる無人地帯にいるような気がする人もいるだろう。その人たちはもうエゴに動かされてはいないが、まだ目覚めが充分に人生に取り込まれていない。内なる目的と外部的な目的がひとつになっていないのだ。・・・・・・・・・・・P281
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