♬ この本の日本でのタイトルは、「さとりをひらくと、人生はシンプルで楽になる」です。
エックハルト・トール「さとりをひらくと、人生はシンプルで楽になる」より
第1節「いまに在る」ことは、頭で考える状態ではない・・・・・・・P128
問い 「いまに在る」ことが、さとりの秘訣だと、繰り返し強調していらっしゃいますね。わたしは、一応理解したつもりなんですが、自分の考えているものが、それなのか、いまひとつ、確信がもてません。
「いまに在る」状態って、頭で考えることなんですか?それともまったく違うものなんですか?
答え 「いまに在る」ことは、頭でこうだと思うことではないのです! 私達は、「在ること」について考えたりできませんし、頭脳はこれを理解できません。「いまに在ること」を理解する、ということは、すなわち「いまに在る」ことなのです。
ちょっとした実験をしてみませんか?目を閉じて、心の中で、こうつぶやいてみてください。「どんな考えが浮かんでくるだろう?」そしてよーく神経を研ぎ澄ませて、考えが浮かんでくるのを待ちます。ネズミ穴を見張っている猫になったつもりで、やってみましょう。穴から飛び出してくるのは、どんな考えでしょう? いますぐ試してごらんなさい。
いかがでしたか?
問い 考えが浮かんでくるまで、結構時間が掛かりましたよ。
答え そのとおり! 意識を集中させて「いまに在る」かぎり思考活動はストップします。心はじっと動かず、静止状態でありながら、とてもシャープです。集中力が低下してくると、様々な想念が次々と浮かんできます。思考が「雑音つくり」を再開したのです。静止状態は失われました。あなたは「時間の世界」に戻ってきたのです。
禅宗では、どれだけ「いまに在る」状態に集中していられるかを試す、座禅のならわしが知られています。座禅中に「いまに在る」ことができなくなった僧侶は、和尚から棒で叩かれます。これはとてもショックを与えるものです。僧侶の精神が研ぎ澄まされ、完全に「いまに在る」ならイエスが譬(たと)えで表現した「ランプの火を絶やさない」状態にあることになります。和尚から叩かれた僧侶は、「思考にひたっていた」言い換えるなら、「いまに在らず」「無意識状態」だったというわけです。
日常生活で、「いまに在る」ことを習慣にすると、「体に根を下ろす」のに役立ちます。しっかりと根を下ろしていないと、荒波のような思考が、たちまち私達を飲み込んでしまうでしょう。
問い 「体に根をおろす」ってどういうことですか?
答え 100パーセント自分の身体に住まうことです。身体の内側のエネルギー場を、いつもある程度意識していることです。身体を内側から感じ取ること、と表現した方がわかりやすいかもしれません。からだを意識することは、すなわち「いまに在る」ことなのです。体を意識していれば、「いま」に碇を下せるのです。(詳しくは第6章参照)
第2節 「待つこと」の本当の意味・・・・・・・・・・・・・・・・p130
「いまに在る」状態は、「待つこと」に譬えられます。イエスは譬えの中で、「待つ」という行為を「いまに在る」ことのシンボルに使っています。この場合の「待つこと」は一般的な意味合いの、退屈な状態や、そわそわして落ち着かない状態とは違います。それらは、わたしがすでにご説明した、「いまの否定」です。未来に焦点を当て、「いま」を「煩わしい障害物」とみなすような「待つこと」です。
この状態と対極に位置する「待つこと」があります。これは、完全な意識の集中を要します。いつ、何が起こるとも知れないのですから、完全に目覚め、思考が静止していなければ、それを見過ごしてしまうのです。これがまさに、イエスの表現するところの「待つこと」です。この状態では、意識は「いま」に注がれています。「空想」「思い出す」「予測する」といった思考活動をする余裕はありません。かと言って、緊張しているわけでもなく、恐れもありません。精神が研ぎ澄まされた「いまに在る」状態なのです。全身が細胞がひとつ残らず、「いまに在る」のです。
この状態では過去と未来を背負った「私」(個性と言ってもいいです)は、ほとんど存在しません。しかしその人本来の価値は、みじんも損なわれていないのです。本質は、そのまま生かされています。むしろ、より一層「ほんとうの自分」に近づいたと言ってもいいくらいです。実を言うと私たちが、「ほんとうの自分」でいられるのは、「いま」しかないのです。(略)・・・・・・・・・・・・P131