「いじめ対策の専門家チームを配置する」という新聞記事を見て、そうか、俺らは専門家とは見られてないなとあらためて思う。
先日の「行列のできる相談所」で、ご子息がいじめにあった際の話を北村弁護士が語られていた。
いじめがわかった後、学校に解決能力はあるはずはないという前提に立って、北村弁護士は対応したという。いついつまでに何をやってほしい、そうでない場合は転校すると、毅然と申し渡したところ、予想に反してすっかり解決してもらえたという体験談だった。
北村氏が思っていたほど学校の先生は無力ではないと思う反面、人により、学校によるという面もあるのはたしかで、現実に起きている様々な事件をみるかぎり、北村氏のように思われてもしょうがない。
いじめを発見し解消に向かわせるシステムが確立している学校もあれば、特定の先生まかせになってしまっている学校もある。
公立学校の先生は入れ替わるので、力量のある先生がいる時に平穏だった学校も、その先生の異動とともに崩れていくこともある。
生徒のために力を発揮しようとする校長先生が来られることで、がらっと変わることもある。
問題はそこだと。「その学校」のやり方ではなく、日本中のどの学校でも、いじめに対応できるシステムができてないといけない。
たとえば向山先生のご本にあるように、いじめの訴えがあったら24時間以内に学校として対応する、というような決めごとが、どの学校でも共通に行われなければならない。
だとしたら、今回の文科省の方針は、問題解決の本質からはずれているのではないかとの疑問も抱く。
とくに先生方のプライド的にはどうなんだろ。
ふーん、じゃ俺はおりた、あの専門家にまかせちゃおう、というような感覚になってしまわないだろうか。
そこが心配だ … とか書いたってどうにもならないのだけど。
話はもどるが、すぐれた実践家、名人教師、あの先生にさえまかせておけば大丈夫、というようなすごい方は、そんなにはいない。本を出されるような先生は、ほんのひとにぎりの方々だ。
学校の先生のほとんどは、ふつうのおじさん、おばさんであり、ふつうのおにいちゃん、おねえちゃんなのだ。
たとえばふつうのお兄ちゃんが、ファーストフードでバイトしてたとする。
中学生の集団が来る。店内を我が物顔で歩き回り、大声で騒ぎ、ほかのお客さんに迷惑になっている。
アルバイトとはいえ、少し静かにしてもらえますか? って言わないといけない状況になるかもしれない。
かりに注意したとしよう。あんだと、こるぁ、誰にいっとんじゃわれ、大阪湾浮かすぞ、とか言い返され身の危険を感じるような目にあうかもしれない。
そういう状況は、週に三日バイトしてたとしてどれくらいの頻度で出会うだろう。現実にはごくたまにだろうけど、そうなった場合にはとんでもないストレスをうける。
学校というのは、年がら年中、朝から晩までその手のストレスを受け続けている状況にもなり得る場所だ。
生徒にとって、ファーストフードの店員さんと、学校の先生との差があんまりなくなってきているから。
なので、先生が先生らしくふるまおうとすると、「なんで、この人にこんなことを言われないといけないのだろう」と、純粋に疑問を抱く子もいる。
学校の先生は「えらい」存在だという建前がほぼ失われつつある世の中全体の感覚が、その一因であることは言うまでもない。
これは別に新しい発見ではないし、「プロ教師の会」の方々は随分前からそう主張していた。
「こわい」父親も、近所のおっちゃんも、おまわりさんもいなくなったのだ。
「先生の言うことはきくものだ」として扱われる「先生」でなくなってきた。
北村弁護士の目線がだいたいそうではないか。
ご本人にどの程度自覚があるかはわからないが、「学校の先生に」という言い方のなかには、「自分よりもあきらかに知的能力、事務処理能力が低いあの人」たちというニュアンスがこめられている。
教室内カースト以上に強固かもしれない職業カースト意識が見え隠れしている。
そういう娑婆の現実のなかで、おだてられると木に登るタイプがけっこういるはずの先生方に対して、専門家がやるから引っ込んでてねと言うのは、ちょっともったいないと思うのだ。
ああ、なんでこんなことを書いてるんだろ。
帰って寝なくちゃ。昨夜は最近の自分にしては遅くまで起きていた。
もう作業は明日にまわして撤収しなさいと放送したのが一時半ころ、そこから片付け終わるまで一時間以上あったかな。
気力をふりしぼって起きてしまえば、今日の午前中はクラスの準備なので、少しのんびり目にすごし、ギターの弦をかえたりしていた。
午後は、会場づくり、そのあとリハーサル。買い出しの不足分を買いにいったあと、自分も少しリハーサル。居残り組を駅まで送り、学校の戸締まりもしたから、もうパソコン閉じて帰ろう。
楽しみにしております!