水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

WHY

2010年11月02日 | 日々のあれこれ
 福岡伸一先生が、科学は「HOW」は問えるけど、「WHY」は解明できないとどこかに書いてらしたのを、今日の現代文の演習で、たまたま同じような話があって思い出した。
 あらゆる物体の運動をニュートンは一つの法則に表現することはできた、しかし、なぜそうなるのかは何も言ってない、とその文章では述べていた。
 「HOW」に答えるのが科学だとすれば、「WHAT」に答えるのが宗教なのだろう。
 人はどうやって生きるのか。
 栄養をとって、身体にいきわたらせて、臓器を動かして、血液を循環させて … 。
 人はなぜ生きるのか。
  … 。
 なるほど、この答えは科学からは生まれない。
 ある人は答える。
「この世に生を受けたものには、なんらかの役割があって、それを果たすためだよ」
 ある人は答える。
「自分の夢を実現させるためだよ」
 ある人は答える。
「生きているんじゃない、サムシンググレートに生かされてるんだよ」
 ある人は答える。
「それ愛するためです」
 ある人は言う。
「人間だもの」
 どの答えも、人の心をつかんで離さないことがあり得る。
 でも、どの答えも、その根拠を論理的に説明できる類のものではないことは確かだ。
 だから、その答えを人がどれくらい信じるかは、内容の確からしさではなく、誰が言うか、どう言うかにかかってくるのであろう。
 いかにも修行を積んで不思議な魅力をたたえている老師が、おだやかな声で何かを発したとき、表現はどうあれ、「そうか人生ってそういうものなのか」と思わされてしまいそうだ。
 どんなに真実味あふるる言葉も、ちゃらいお兄ちゃんとかが軽く語れば、心にしみないだろう。
 根拠無きものをいかに信じさせるか。
 これはひょっとして、学校の先生の一つの仕事かもしれない。
 「努力すれば道は拓かれる」とか「思いやりをもとう」とか我々は言うけど、それらを科学的に正しいとする根拠はない。
 だとしたら、どう言うか。
 どんな人として言うか。
 教える側のこっちの方が、人としてどんなかが問われるということだから、大変だなと急に思ったのだった。
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