水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

現実

2019年07月19日 | 学年だよりなど
学年だより「現実」


 オリンピックに向けて着々と建設が進む新国立競技場。みなさんも記憶しているように、この競技場の建設プランの決定には紆余曲折があった。最終的には、隈(くま)研(けん)吾(ご)氏のチームによる、和の素材を取り入れたプランが選ばれることとなった。
 今や日本を代表する建築家として世界に知られる隈氏だが、決して順風満帆の人生を送ってきたわけではない。昭和29年、神奈川県生まれ。
 小学4年のときに開催された東京オリンピックでは、父親に連れられて水泳競技を見にいった。その時初めて目にした代々木の体育館に、隈少年は目を奪われた。
 「ここは、どういう人がデザインしたの?」「建築家という仕事があって、丹下健三という有名な人が設計した」と父親が答える。将来は建築科家になりたいという思いが芽生えた瞬間だった。
 東京大学に入学し、自分の目標に向かって迷いなく進もうかとしていた頃のことだった。


 ~ 東大に進んで工学部建築学科で学びました。ところが、入学した途端にオイルショックが起き、「これからは建築の時代じゃないぞ」という空気が学内に漂い始めたんです。僕はもともと壮大なコンクリートの造形美に憧れていました。しかし、70年代はオイルショックに加えて環境保護だとか公害だとか日本国内でいろいろな問題が起きてきました。都心の古い木造建築も次々に消えていきました。
 自分の中で「建築はいまのままでいいのかな」という疑問が湧いてきたのですが、いま思うとその心の変化が起きたことが僕にとってはとてもラッキーでしたね。コンクリートの造形美に熱狂した自分と、そういうものへの反省と自然の大切さを実感した自分と、二つを体験できたのは、その後の建築家人生に大いにプラスになったと思います。
… 僕にはいまでも「このまま建築をやっていていいのか」という悩みがあるんです。それはこの時の感覚がいまだに残っているからでしょうね。人間が生活する上で建築はもちろん大事だけど、一方では環境問題もあるし、建築は税金の無駄遣いという批判もある。目の前の仕事にばかり目を奪われず、そのような問題にもしっかりと意識を向けて、自分自身を醒(さ)めた目で、ちょっと突き放して見てみる。この視点はこれからの建築家には特に必要になってくると思います。 ~


 日本から離れれば新しい世界が見えてくるのではないかと考えた隈氏は、東大大学院を卒業後、アメリカのコロンビア大学に留学した。
 それまで興味がなかった木の建築を学ぶようになると、その魅力に取りつかれる。「和」をいかした建築スタイルの土台は、このころ生まれたという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする