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私の戦後感

2023-05-20 11:33:39 | パソコン相撲
私は昭和40年生まれだから、終戦から20年後に生まれた。
思い返してみても、当時はすでに戦争があった空気はなかった。
出身は新潟の山間部の農家だった。空襲、艦砲射撃、機銃掃射は皆無。
隣町の長岡は、20年8月1日夜中に焼夷弾空襲で焼け野原になった。
聞いた話で、裏山が真っ赤になり家族で呆然と見ていたとのこと。
当時5才だった父の妹が、親におんぶされながら、はっきりと憶えている。
幸いの事に、我が町には戦火はなかった。

タケ婆から聞いた戦争話を載せておこう。当時44才。
「敵がどこにいるか頭上げたところ、撃たれたいや」(姉の子の最期)
「長岡空襲の時は、空が真っ赤だったいや」(20年8月1日夜中)
「あそこん人は、戦争に行きたくなくて醤油一升飲んだってよ」(徴兵検査の時)
「とうちゃんは、子供ん時、戦争ごっこして遊んでいたいや」(私の父、9才)
私は聞き、戦争があったんだ、当時はそうだったのかと思った。

家族からは兵隊は出なかった、父は9才、祖父は35才だった。
墓地では英霊の墓があり、上等兵などの階級が掘ってあった。
私は戦争があったのを、お墓で、まじまじと感じた。

戦後20年経つと、もはや戦後ではないという空気の元に育った。
佐藤長期政権が前年から始まり、安定した世相だった。
これらは、新潟の山間部での私の戦後感です。

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2 コメント

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私の戦後感 (ビーズうさぎのハナちゃんです!!)
2023-05-20 19:29:40
私の父は終戦時栃木県内を食料増産隊という組織で農作業をしていたそうです、母は足利市の軍需工場で勤労動員で作業していたようです、空襲時には、渡良瀬川の芦の中に隠れたとか、迎撃に上がった戦闘機が山の中に落ちたとか・・・大叔父は海軍に行っていたそうですが、皆すでに鬼籍へ行ってしまいました。
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私の戦後感 (耳かき山)
2023-05-20 23:43:29
コメントありがとうございます。
新潟の山間部なので、戦争中も静かだったのかと思います。それぞれの家庭では日々、それはもう大変だったことでしょう。夏は何時もの様に蝉が鳴き、秋はアケビが実りオヤツになりました。自然は何も変わりませんでした。人の世は別でしたが。
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