Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“別のものがあることを示す”

2012-09-16 23:50:13 | 日記


★ つまり、何がある人のもとにあるものとして、決定できるものとして、取得できるものとして、譲渡できるもの、交換できるものとしてあるのか、またないのか。そしてそれはなぜか。これに対して与えられるのが、私が作る、私が制御するものが私のものであり、その力能が私である、という答なのだが、この答はどんな答なのか。

★ つまり私はこの本で「私的所有」という、いかにも古色蒼然としたものについて考えようとする。けれども私は、所有、私的所有は、依然として、あるいは一層、この社会について考える時に基本的な主題だと考えている。


★ 何かはある。しかしそれは漠然としたものであり、時には矛盾するようにも思われる。なぜなのか、それをうまく言葉にできない。すでにある、与えられた(言語化された)論法、この社会にあるとされる論理では説明することができないことがわかる。むしろ、観念や実践の堆積があって、それが見えにくくしているのだと思う。

★ ただ、その論理を辿っていくと、それらがどのような道を通っているのか、同時にどこを通っていないのかが見える。疑問を疑問としない主張、常套的になされる批判、批判を中途半端に終らせる批判を、少し丁寧に辿っていく。その中で、そこに言説として現れない何が前提されているのかを浮かび上がらせる。そのような作業の中から、別のものがあることを示す。新しい何かを「発明」しようというのではない。行おうとするのは、既に、確かにあるもの、しかし十分な言葉を与えられていないもの、それを覆う観念や実践の堆積があって言うことをやっかいにしているものを顕わにすることだ。

★ そしてそれは、種々の「理論」――それらはひどくあっさりと私達の様々な現実を切り詰めてしまう――で主張されることほど過度に単純でないが、それなりに筋は通っており――感覚に論理を対置するというのはまったく間違っていると思う、感覚は十分に論理的である――、そしてその中核にあるものは、多分そんなに複雑なものではない――私達はあまり複雑なことを考えられない。

<立岩真也『私的所有論』 序(勁草書房1997)>








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