現在、“尊厳死”を公然と肯定する発言が、“自民党総裁候補”によって発せられた(石原伸晃とかいうたんなるバカ)
“尊厳死”に一貫して反対の立場をとる立岩真也へのインタビュー(不登校・ひきこもりの専門紙『Fonte』2009)からその一部を引用;
☆ ― 「自己決定」の問題です。なぜ他人が死に際を決める権利を奪えるのか、最期は潔く死にたいと私は思うのですが。
★ この問題は非常に大きくて、『良い死』では、多くの紙数を「自己決定」にまつわることに割いています。
石井さん(注:このインタビューの聞き手)は、有名なミュージシャンや作家が、早くに亡くなったことを「かっこいいな」と思う。それはありだと思います。ただ、薬(やく)やって、喉にゲロ詰まらせて死んでしまったのを私たちは祭り上げてしまうようなところがありますよね。人間は観念で生きています。そういう観念として思うことと、いざというときに思うことは、ちがうことも多いと思いますよ。
たしかにいまは、年を取って、体が動かなくなって、排泄も自分じゃできず、チューブにたくさんつながれる、そういう「自分は許せない」と思うかもしれません。「許せないのは自分なんだからいいじゃないか」と言うかもしれません。
でも、その否定している対象は、想像のなかの「自分」なんです。いまの自分と、何十年後かの自分は連続していますが別人です。未来の自分をいまの自分が決めつけられるほど、いまの自分はえらいんでしょうか。
動けなくなったら価値がない、死ぬに値する自分だ、と思うこと。それは「自分」のことではなく、そういう人間は、死ぬに値するほどいやだと思っているということなんです。私も自分が弱っていくことはいやです。いやだけれど、それと動けない自分は死んでもいいと思うことは別です。動けない自分は死んでもいいと思うことは、そういう状態で生きている人に対する侮蔑だとも思うのです。
障害を持っている人は、この問題に敏感です。なぜなら、たとえば脳性マヒの人は、勝手に口が開いてしまったり、体がよく動かない。若い人が高齢者を見て「ああはなりたくない」と言うけれど、脳性マヒの人は「ああはなりたくないって言うけど、それはオレのことか」と。自分のことだから「自分の価値観でいいじゃないか」と言うかもしれませんが、その理屈がすべて通るわけではありません。そういう状態を「気持ち悪いと思うな」と言ってるわけではありません。けれども、その人の生存を否定することはダメなんだ、と。そう思うんです。
自分が変わったらいやかもしれないけど仕方がない。そして変わったとしても、その生存が、なんら否定されるわけじゃない。そう思えるほうが、本人にとっても楽だと思いますし、社会システムもその価値観に沿っていったほうが、いいと思っています。
☆ ― 最後に「いのちとはなにか」という質問をさせてください。
★ 去年、慶応大学で最首悟さんと講義をしました(『連続講義「いのち」から現代世界を考える』岩波書店)。そこで最初に話したのが「いのちのことはわかりません、おわり」と。今回もそういうことです。
「○○とはなにか?」という問いは、よくわからないことがあるんです。その問いに意味がある場合、ない場合、何を問うているのかわからない場合、答えてもしかたがない場合、答えないほうがいい場合、いろいろな場合があります。
すくなくても、私には生きているということがどういうことなのか、よくわかりませんし、わからなくてよいようにも思います。そして、いのちとはなにか、その問いに答えようとする欲望が私には足りません。また、いのちとはなにかという問いに、答えがなくてもよく、一つじゃなくていいとも思っています。べつにいのちの大切さやすばらしさなどをいっしょうけんめい言わねばならないとも思いません。死ぬより生きているほうがいいだろう、というぐらいのことです。だけど、もっともらしいことを言って、他人に「死んだほうがいい」などと言っている人たちには、「それはちがう」と言ってきました。それを説明するのは私の仕事です。
――ありがとうございました。(聞き手・石井志昂)