Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“別のもの”があることを示す

2012-05-07 14:27:44 | 日記

★ 何かはある。しかしそれは漠然としたものであり、時には矛盾するようにも思われる。なぜなのか、それをうまく言葉にできない。すでにある、与えられた(言語化された)論法、この社会にあるとされる論理では説明することができないことがわかる。むしろ、観念や実践の堆積があって、それを見えにくくしているのだと思う。

★ ただ、その論理を辿っていくと、それらがどのような道を通っているのか、同時にどこを通っていないのかが見える。疑問を疑問としない主張、常套的になされる批判、批判を中途半端に終わらせる批判を、少し丁寧に辿っていく。その中で、そこに言説として現れない何が前提されているのかを浮かび上がらせる。そのような作業の中から、別のものがあることを示す。新しい何かを「発明」しようというのではない。行おうとするのは、既に、確かにあるもの、しかし十分な言葉を与えられていないもの、それを覆う観念や実践の堆積があって言うことをやっかいにしているものを顕わにすることだ。

★ そしてそれは、種々の「理論」――それらはひどくあっさりと私達の様々な現実を切り詰めてしまう――で主張されることほど過度に単純ではないが、それなりに筋は通っており――感覚に論理を対置するというのはまったく間違っていると思う、感覚は十分に論理的である――、そしてその中核にあるものは、多分そんなに複雑なものではない――私達はあまり複雑なことを考えられない。

★ 「別のもの」と今述べたものについては、特に誰かのアイデアをもとにするのではない。手作業によって考察の多くの部分は進められた。書かれることは特に何かの「思想」に依拠していない。ひとまず必要がなかったからだ。(略)そういう作業はきっと必要なのだろうし、それを行うことによってきっと私も得るものがあるのだろうとは思うが、相手から何かを受け取るためにも、まずは私が考えられることを詰めておこうと思った。

<立岩真也『私的所有論』“序” (勁草書房1997)>








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