低気圧のせいか、このところ気分がアップしません。
なんども書き、このブログでも引用したりしてるが、ぼくは時事的な“情報と意見”を、このパソコン上で見ています(“テレビ”ニュースや解説番組もたまに見るが)
現在、いちばん大きな流れとしては、既存(大)メディア対ネットメディアということが言われているが、ぼくにとっては、どっちも同じです(パソコン画面上にある)
テレビについても、結局、ネットメディアのヒーロー“津田大介”もNHK“テレビ”に出るし、“一般意志・東浩紀”もレギュラー番組を持つわけだ。
ぼくは、それが論理的に(倫理的に!)“悪い”とも言えないが、結局同じなんです。
つまり“有名人”は、大メディアでもツイッターでも活躍なさるわけです。
こういう“社会システム”は、ぜんぜん、変わりようがありません。
むしろ“ソーシャルメディア”は、有名人がさらに有名になるための宣伝メディアということです。
“無名”のぼくが上記のように書くと、“ルサンチマン”と思われるでしょうが、たしかに無名人は永遠にルサンチマンを抱くように“なっている”わけ。
ちょっと話題を変える。
たとえば、ぼくにとっては、“国家”とか“憲法”というのは(というのも)“必要悪”なんです。
なければいいのに、ないとやってけないらしいから、しかたがないなあー、と。
ぼくの理想は、“仕切り”とか“掟、ルール”とかがなくても、ぼくとぼく以外の人間が、なんとなくそれほど喧嘩せず(互いを損なわず)やっていける“社会”ならいいなー、と。
だから、国家については、立岩真也の《分配する最小国家》を支持します。
憲法についても、守るとか改正するとかに熱心な人に違和感を感じます。
ある意味で、“偉いなー”と思う。
でも紙に書いた“法”がいくら立派でも、それが実現-運用されなければ、しょうもない。
たしかにものごとは循環するから、紙に書いたものが良くなければ、“現実”も良くならないということもあるんでしょう。
でも、紙に書いたことが素晴らしくとも、現実は良くならないこともあります。
“各論”ではけっこういいことを言っていても、“総論”でくるっているひともいます。
たしかに現在、“いろんな意見”を読むことができます。
それは“ただひとつの意見しか読めない”よりは、いいことなんです。
しかし毎日、“いろんな意見”を読み続けていると、気分が高揚してくるより、単に疲れてしまうのは、ぼくがもう若くないからなんでしょう(残念)
そしてどうしても思ってしまう。
いったい君らは、けっきょく、どうしたいの?
その質問をぼくにされても、わかりませんが!(笑)
ただぼく自身も(この歳になっても)明瞭でないのだが、ぼくにとって重要なのは(まあこの人生で)、どうも世間で論じられていることとは別のことだ、という感じはいつもつきまとっています。
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