Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“サヨク”と“ウヨク”

2012-05-06 14:52:49 | 日記

東浩紀とか茂木健一郎の世界には、“サヨクとかウヨク”と呼ばれるひとしかいないらしい。


☆ 茂木健一郎の今日のツィート

茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
たわ(9)今朝retweetした英国Guardian紙の記事は、「日本が復活し、中国は停滞するだろう」と予測していた。プリンシプルに従って考えれば、そうなるのではないか。日本には、明治から民主主義が存在した。体制間競争はまだ終わっていないが、必ず最後に自由は勝つと私は予測する。

茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
以上のような現実認識なので、原子力が、電力会社や「原子力村」の利権の道具になっているという見方に、私は与しません。資源のない日本がこれだけの文明を築いている、その持続可能性は、残念ながら原子力を選択肢に入れなければ担保できないというのが、私の判断です。

茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
仕事に戻る前にひとこと。核廃棄物の処理の問題は、原発を考える上でもっとも重要な論点であることはもちろんです。この点を含め、理性的な反原発論の方々のご意見は、大いに歓迎いたします。私は自分の見解を最初から決めているわけでなかく、理性とエビデンスに基づいて判断したいと思っています。
<追記>




☆ 東浩紀の朝日新聞談話(下記ブログ参照)

いま人気を集めている強いリーダーは基本的に右翼です。左翼は批判しますが,強いリーダーが出てこないことこそが左翼の問題です。日本人がいま理念やビジョンを必要としているのは自明です。左翼はそれらをもっていたのに,いつのまにか単なる『突っこみ役』になってしまっている。それじゃあ負けますよ。保守的なナショナリストたちの理念そのものは理解できないところも多いですが,理念を出している。これが大事です。だから僕も,憲法改正試案というかたちで新しい国家像を提示するのです

(以上引用)




茂木健一郎と東浩紀が橋下徹支持であることは偶然ではない(ツイートによると宮台真司も橋下支持である)


茂木健一郎は、“サヨク”という用語を使用していない。

東浩紀は上記引用のように、“左翼”と言っている。
宮台真司がサヨク嫌いなことは、みなさんの方がよくご存知だろう。


なにが(だれが)左翼で誰が(何が)右翼なのか?

右翼とは、ナショナリスト、新自由主義者であるらしい。

ならば左翼とは、なにか(だれか)?

東浩紀にとっては、柄谷行人が左翼なのか(笑)

左翼=共産主義者=マルクス主義者=収容所列島国家(崩壊)=中国共産党なんですか?


左翼と右翼は、思想的史的概念であると同時に、歴史的事実でもある。

しかし、“左翼と右翼”という概念で、現実を区分するのは、狭い。

息苦しいのである。

まさに東浩紀のような“ポストモダンな”論客は、そのような“狭さ”こそ、バカにすべきだ。

たとえば、ミシェル・フーコーやジル・ドゥルーズにおける“マルクス主義”である。

フーコーがマルクス主義を嫌っていたことは、明瞭である。

明瞭でないのは、そのフーコーの“思想と行動”における、マルクス主義との“関係”である。

つまりその“葛藤”である。


マルクス主義やフロイト主義を、たんなるイデオロギーとしてあつかうことはできない。

それは現実の運動であった(ある)

“運動である”とは、その思想によって生き死にしたひとがいた、という“現実”なのだ。


たしかに思想は、洋服のように“着替える”こともできる。

“狂信”し、夢から覚めるように、その思想から、脱却することもある。

もちろん、なんのイデオロギーにも感染せず、“一般意志”として生きる事もあるかもしれない。


しかし、世界は広い(深い、“スパーフラット”ではない)



《自由》というなら、自由を定義せよ。

《ナショナリズム》というのなら、民族や国家を定義せよ。

《理性とエビデンス》というのなら、理性を定義せよ。

《理念やビジョン》は他人(ひと)から与えられるものではない。


わたしが生きている限り、結論はなくとも、考えつづけるという行為はある。







<追記>

* こういう意見もある

世に倦む日日 ‏ @yoniumuhibi
原子力村からカネをもらって広告塔をやっていた茂木健一郎が、必死に脱原発批判を繰り返している。それを(自らの代弁者の如く)江川紹子がRTしている。脱原発派は感情的だとか、他者への理解がないとか。何を言ってやがる。福島の人々への想像力が最も欠けているのが原発推進派だろうが

世に倦む日日 ‏ @yoniumuhibi
原子力村の広告塔を務め、4億円の脱税をやっていたhttp://p.tl/FCin http://p.tl/hLXK 茂木健一郎が、「御用学者」とか「原発推進派」のレッテル貼りは不当だと喚いている。この男の常識のなさに呆れる。カネをもらっていながらそれはないだろう

世に倦む日日 ‏ @yoniumuhibi
茂木健一郎、「原子力が、電力会社や『原子力村』の利権の道具になっているという見方に、私は与しません」なんて言っている。盗人猛々しい。自分が原子力村からカネをもらって広告塔をしていたくせに。この男、利権という言葉の意味、わかっているのか。自分の脳を誰かに科学してもらった方がいい
(引用)



*茂木健一郎 2012/05/07

茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
これは一般論だけど、自分の正義を信じて疑わない人ほど、おそろしいものはないね。かつての左翼もそうだったんだろう。養老孟司さんが、学生運動のときに、戦前の日本が戻ってきた、と思ったというのがよくわかる。何度でも戻ってくるんだろうね。

茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
ところで、私自身の「原発」についての見解は、昨日ツイートしたことで尽きているので、今後、状況が変わらない限り、新たにツイートすることはありません。念のためお断りしておきます。ですので、私への@メンション攻撃は、ムダに終わる可能性が高いです。一応、すべて拝読しますが。

茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
今朝ツイートしたように、原発そのものついての私の見解は当分ツイートしませんが、他人に失礼なことを言ってくるやつらには、ときどき容赦なくかましてやるから、そのつもりで。
(引用)



茂木健一郎の上のツイートの養老孟司の《学生運動のときに、戦前の日本が戻ってきた、と思った》という認識にぼくはまったく賛同できない。

養老孟司が言っている“学生運動”の時期にぼくは、大学にいて“学生運動家”を支持していなかった。

けれども、それは《戦前の日本が戻ってきた》ということではなかったことは、ここに証言したい。




たしかに、ひとは、感情的に語るべきではないだろう。

自分と異なる意見・立場のひとと“対話”すべきだろう。

だが、こうもデタラメを言うひとがいて、そのデタラメが養老孟司→茂木健一郎のように受け継がれていき、それが“歴史”となっていくのを見ると呆然とする、慄然とする。

しかもサヨクもウヨクもリベラルも、現在主流である人々は、ぼくから見れば、すべてこの自分が生きている時代についての、贋の認識者・贋の証言者に見える。

彼らが、“まちがう”のはよい、だれだってまちがう。

許せないのは、確信を持って、あえて贋の証言をする者たちである。






“吉本新喜劇” なう

2012-05-06 09:30:54 | 日記

先日のぼくのブログ、“ロックンロールNOW!―D”へのfunaboristaからのコメントをいただいた。

そのコメントとぼくの返信を貼り付ける。

ぼくが《東浩紀には、その兆候が見える》と書いたのは、ぼくが現在、東浩紀発言を彼のツイートと最近のテレビ(“ニュースの深層”)でしか、読み得ないからであった。

このfunaboristaからの朝日新聞上での発言の“引用”により、もちろん、それは“兆候”ではなかった;


(来信)

兆候(以上かも) (funaborista)
2012-05-06 08:21:33

>東浩紀には、その兆候が見える

↓これですね。

>たとえば現在のOSで自衛隊を動かそうとすると,あいだに別のシステムを入れる必要があり,動作がすごく重くなっています。だったら自衛隊がもう少しサクサク動く,国がうまく回るOSに入れ替えたほうがいいんじゃないか。

>幻想かもしれないが,幻想なしに人は生きていけないから,試案では日本という国を尊重しろと書き,天皇は元首として位置づけました。

>いま人気を集めている強いリーダーは基本的に右翼です。左翼は批判しますが,強いリーダーが出てこないことこそが左翼の問題です。日本人がいま理念やビジョンを必要としているのは自明です。左翼はそれらをもっていたのに,いつのまにか単なる『突っこみ役』になってしまっている。それじゃあ負けますよ。保守的なナショナリストたちの理念そのものは理解できないところも多いですが,理念を出している。これが大事です。だから僕も,憲法改正試案というかたちで新しい国家像を提示するのです

>(憲法改正を主張する政治家は高揚感を漂わせていますが,東さんはどうでしたか・・・という質問を受けて)
テンションはあがりますよ。憲法かえるのはやっぱり気持がいいものですね。それは間違いない。新しい国のかたちをここに定義するんだみたいな,このワクワク感。

(「護憲・改憲から離れて議論〈いま,ここにある憲法〉」(朝日新聞2012/5/1朝刊)から)

茂木健一郎に言わせりゃ、↑も“ロックンロール“なのかもしれませんが、こりゃどう頑張ってみても“吉本新喜劇”。
「体を張ってる」ってのだけが唯一の共通点ってことで。




(返信)

funaborista さま

ありがとう。

こういうのが”有効な”コメントです。

ぼくは朝日新聞を購読していないので、東浩紀が朝日に書いた文章を引用できなかった。

そして東の憲法改正案を読むためには、東の雑誌を買うほかないが、買う気がない。

ぼくは”憲法改正案”を言うこと自体には反対ではない。

問題はその内容です。

ただ現在の”ゲンロン”が、憲法に収斂する、という立場でもない。

むしろ”問題”は、”ブンガク”です。

それは、ベタに言う、なら、ぼくのような団塊と現在主流化しつつある”世代”とのディスコミュニケーションです。

もっと一般化すれば、若者と老人のコミュニュケーションの”不可能性”です。

あなたがまだ”若者”であるかどうかは、わからないが、ぼくよりは若い(笑)

すなわち、ぼくではなく、東と同世代もしくは、東より若い世代から、東を”批判”する人々があらわれることを期待します。

宮台真司も批判されるべき。

ぼく自身は、近日、2008年に出た、”ユリイカ”の中上健次特集号での、中上に対する東発言を読み、いま考えているところです。

これをブログに書く”べき”なんだが、このところ書くことへのテンションが落ちています。






<追記>

2008年に出た、”ユリイカ”の中上健次特集号での中上に対する東発言から一ヶ所引用する;

★ さっき述べたように中上健次だってある意味自然主義そのものなのです。ここで「自然主義」という言葉で名指されているのは、文体の問題ではなく、ごく単純に文学がどこに外部を求めるか、なにを材料として想像力をくみ上げているのかという問題です。その点で、中上が自分の文学の外部として自然や現実を選んでいたことは疑いない。それは、文学の外部にマンガやアニメの記憶があるライトノベルとはまったく異なるわけです。
(引用)



上記のような“認識”が東浩紀の核心であり、もしここで東が述べていることが、間違っているなら、東というゲンロン人の“売り”は崩壊する。

さらに、(これがもっと重要だが)、東のような“思想”により、なにか“新しい”立場とか“世代”が形成されているという立場も崩壊する。

たしかに、新しく自分を売り出す“世代”は、自分の“差異性”を強調する。

しかしそんなことは、餓鬼の遊びでしかない。

文学の外部に自然や現実がない、ことなどあり得ない。

まさに、“それを選ばない”ことが問題である。

すなわち、東が擁護する“ライトノベル”は、自然や現実を“選ばず”、マンガやアニメの記憶を“選んでいる”のだ。

この二者の立場を、肯定したり否定したりする論議に、意味があるとは思えない。

なぜなら、どんな世代であっても、直面しているのは、自然と現実だからだ。

すなわち、マンガやアニメも、自然と現実から現われる。

だから、“選ぶこと”を間違えてはいけない。