★ やだやだ、どうかこの想像がまちがっていますように。それでは人生があまりにも空疎すぎる。なぜかあまりにも愚劣すぎると感じられる。そんなもののために、わたしたち夫婦は苦労してきたのかと、つい自問自答せずにはいられない。そんなもののために、三人の娘を育て、結婚させ、中年期にはつきものの夫の浮気をのりきり、遮二無二働いて、そしてときには(そう、それを直視しよう)、ほしいものを強引につかみとりもしてきたのだろうか。もしそうだとしたら、もしもその暗く奥深い森から出てきたところが、この・・・・・・この殺風景な駐車場だとしたら・・・・・・そもそもひとはなんのために努力などするのだろうか。
★ そしてある日、ひとはなにげなく肩ごしにふりかえるという誤りを犯す。そして気づくのだ――娘たちがいつのまにかおとなになってしまっていることに。これまでなんとか結婚生活を維持しようと苦闘してきたその相手が、脚を――なまっちろい脚を――だらしなくひろげ、うつろに日ざしを見つめてすわっていて、しかも、ああ、なんということか、外出用のスーツならどれを着ても五十四歳に見えるだろうその男が、キッチンテーブルにそうしてすわっているところは、七十歳にも見えるというその事実に。いや、もっと悪い――七十五歳にさえ。
<スティーヴン・キング“ハーヴィーの夢”―『夕暮れをすぎて』(文春文庫2009)>
★ くろぐろとした西洋スギの枝のあいだに浮かんでいる月をながめながら、ロビンソンは思いにふけった。
これで、耕作地も、飼育場も、建物も、ロビンソンが島で作りあげたすべての作品も、ほら穴のなかにためこんだあらゆるたくわえも、なにもかも、フライデーのあやまちのために失われてしまったのだ。
★ けれども、ロビンソンはフライデーをうらんでいなかった。じつのところ、ロビンソンはもうずっと前から、このこせこせしてめんどうな島の機構に、すっかりいや気がさしていたのだが、そうかといって、それをぶちこわす勇気もなかったのだった。
★ ところが今は、ふたりとも自由だった。いったいこれからどうなるのだろう、とロビンソンは好奇心にかられながら考えた。すると、これからはフライデーが先に立ってロビンソンを指導していくにちがいない、とさとった。
<ミシェル・トゥルニエ『フライデーあるいは野生の生活』(河出書房新社1996)>
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