Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

幸福感1968

2012-05-09 17:03:31 | 日記

★ わたしが最初に政治集会に参加したのは、1968年4月26日のことである。先に述べた倫理社会の教師に引率されて、十人ほどの同級生たちと代々木公園に日本共産党系の集会に出かけたのである。

★ だが、集会は期待していたほど面白くなかった。会場内を埋め尽くした参加者のところどころにプラカードや赤旗が立ち、遠くの方で誰かが演説している。誰もが命じられたようにそれに拍手をしたり、しなかったりするわけだが、いったい学校で月曜日ごとに行われている昼礼とどこが違うのかというのが、わたしが感じた素朴な疑問だった。

★ 1968年の4月には、すでに全世界で多くのことが起こっていた。1月にはハノイへの北爆が再開され、アメリカは国家予算の四割を軍事費に用いて、ヴェトナム戦争を続けていた。パレスチナではイスラエルの侵略に対して、若きアラファトが抵抗運動を組織しようとしていた。パリ大学のナンテール校では反ドゴールを叫ぶ学生たちが校舎を占拠し、アメリカではキング師の暗殺を契機に全国的な黒人暴動が展開されていた。日本もまた例外ではなく、1月には東大医学部が無期限ストに突入し、佐世保ではエンタープライズの寄港反対の、王子では野戦病院設置阻止のためにデモと集会が相次ぎ、学生に多くの逮捕者を出していた。べ平連は月に一度のデモを行っていたが、それがやがて毎週土曜日ごとへと、頻度を増していった。あらゆる事態が蟻地獄の円錐状の斜面を滑り落ちるようにして、次々とエスカレートしてゆき、留まるところを知らないように思われた。

★ わたしは数学と水泳に夢中なエリート校の高校生であり、凡庸にして幸福な中産階級の子弟にすぎなかった。そしてみずからの凡庸さに苛立ちを感じこそすれ、そこから脱出するだけの力も勇気ももちあわせていなかった。

★ 上田正行というその教師は当時まだ教育大学文学部の大学院生で、二葉亭四迷について長大な論文を執筆中であると、最初の授業のさいに自己紹介した。それから、教壇に立つのはこれが最初であるとも。彼は指定された現代国語の教科書を手にとり、目次を一瞥すると、いかにも馬鹿にしたように、「こんなつまらないものはやめて、来週からはぼくが教材を準備しましょう」といって、そのまま出て行ってしまった。

★ 次の授業のとき上田さんは、おそらく週末を潰して準備したのだろう、藁半紙にガリ刷りしたプリントを山ほど抱えてきて全員に配り、一番前の生徒にむかってそれを朗読してみるように命じた。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」。指名された生徒はわけもわからず朗読した。
「どうだい。すばらしいだろう」と、上田さんはいった。「これは田村隆一の『帰途』という詩だ。意味がわかるかい?」
「少しもわかりません」と、生徒が答えた。「言葉がなかったら、人間でなくてサルになってしまいます」と彼が付け加えると、教室の全員が笑った。

★ 調子の狂った上田さんは、その後ろの生徒に次の詩を読むようにいった。「おれは大地の商人になろう」と、彼は怒鳴るように大きな声で谷川雁の「商人」を読み終えた。そしてその後で、聞かれもしないのに「さっぱりわかりません」と答えて、教師を悲しませた。三番目の生徒が読まされたのは、岩田宏の「感情的な唄」という作品だった。学生、糊、ポリエチレン、酒、バックル、為替といったぐあいに、自分の嫌いなものを列挙していき、次にバス停留所、古本屋、猿、豚、指と、逆に好きなものを列挙していくだけの、きわめて簡単な構造をもった詩だった。これにはようやく生徒も「面白い」と積極的な反応を見せた。上田さんはいかにもホッとしたような表情になった。

★ 1960年代後半にレコードはけっして安い買物ではなかった。裏表で2曲聴けるドーナツ盤が330円か370円、4曲聴けるコンパクト盤が500円、LPともなれば1500から1800円、とくにCBS・ソニーは2000円を超えるものもあった。ハードカヴァーの新刊書が500円くらいだったのだから、この値段はけっして普通の高校生に自由になる金額ではなかった。せいぜい1か月に1枚か2枚のLPが買えればいいほうで、残りは友だちどうしの貸借りが中心となり、それを自宅のテープレコーダーに録音して、繰り返し聴くという形を取らざるをえなかった。

★ ではその年のクラスで、いったいどれ位の生徒がビートルズに関心をもっていたかといえば、おそらく42名のうち4、5名にすぎなかったのではないかと思う。ビートルズ世代とひと口に語られるが、たとえ彼らが来日して2年経ったときでも、わたしの教室ではジョンやポールといった名前は、ごく少数のレコードを貸しあう仲間どうしのなかで囁かれる、親密にして秘密の符丁のようなものだった。とはいえ1968年とは、音楽を通してわたしがこうした知的啓示を受けることになった最初の年として、ある幸福感のもとに記憶される年だった。

<四方田犬彦『ハイスクール1968』(新潮文庫2008)>






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