Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

沈黙

2012-05-04 17:32:52 | 日記

★ 言葉は、閉ざされたものだ。それは種族や民族の共有財産である。話すということは、無償の行為でもないし、無意識にはなされ得ない行為である。話すということは人間の特性であり、人間が自分の存在を確認することだ。生活を確認するための主要な行為、つまり、誕生、交合、分娩、死などと同じように、言語は呪術である。ということは、人間と宇宙を結びつける契約だということだ。

★ 反対に、沈黙はすべてを可能にする。沈黙は呪術的なものではない。それは動物的であり、植物的であり、元素的なものだ。それは大地に根ざしている。沈黙は、脅迫を消し、呪いを解く。それは、他者、よそ者、人間でないものの攻撃に対する大切な防御なのだ。

★ 泥水が流れている河。その河のほとりの濃密な、測り知れない沈黙。インディオの居住地から数メートルの所に近づいても、あなたにはまだなにも見えないし、なにも聞こえない。しかし彼らのほうではあなたを見、あなたの音を聞いているのだ。

★ インディオは、沈黙の世界の内側で人生を過ごす。樹木、植物、動物、河、空、昆虫。なにものも語らぬ。ところどころに喧騒の小島がある。祭り、わずかな言葉、歌、太鼓と笛の音。しかし人生の大部分を、インディオは押し黙って、音のない所で過ごす。

<J.M.G.ル・クレジオ『悪魔祓い』(岩波文庫2010)>








きょうのおいしいツイート

2012-05-04 13:51:26 | 日記

☆ 下手な写真は、被写体への接近が足りない」(ロバート・キャパ)“If your pictures aren’t good enough, you aren’t close enough.


☆ 生きてるために働いてるのに働くことで死ぬのはおかしい


☆ 日本で自分の考えを表明しようとするのは、「気ままな酒屋の店主」か「変わった主婦」か「いい年をした学生」か「年金生活者」といった「競争社会から外れた人たち」だと英誌記者は言っている。「日本には公民教育はないに等しい」とも。


☆ 二度失敗し、三度失敗し、
それでもまだ挑戦を続けるのなら、
彼はその分野に関して才能があると言える


☆ 「葬式は、死んだ人のためではなく残された者を励ますためにある。
 葬式の時読んでるお経でも、供養のためのことなんて
 一言も言ってない。生きるための秘訣とか理想みたいなことを
 延々と言ってるだけだ」


☆ 「世界中の2割の人はあなたがどんな行動をとってもあなたの事を嫌いになる。6割の人は行動によって好き嫌いが分かれる。でも残りの2割の人はあなたがどんなヘマをしてもあなたの事を好いてくれる。世界はそういう比率でできてるらしい。」その事を母に聞いて私は結構心が楽になった。


☆ 【AKB48】え!ホント?テレビで「AKB」と言うとお金がもらえる!? ベテランタレントがラジオ番組内で暴露


☆ 育ちの良い人を「気取ってる」とか「見下してる」とか感じる人は総じて育ちが悪いよ


☆ 「私、天然なのかなー」とマジで言った女の子に対して「たぶんそれ、もの知らないだけだと思うよ」って言った子の表情は、俺一生忘れられない。


☆ 童貞だって言うと「そういうことに興味ないの?」とか言ってくる人はなんなんだろうな、彼は栄養失調に苦しむ暗黒大陸の子供に「食欲ないの?」とか聞くつもりなんだろうか?


☆ 普通の会話50%×普通のルックス50%×普通の身長50%×普通の清潔感50%×普通のファッションセンス50%×普通の学歴50%×普通の年収50%=0.8%


☆ 人生で、あらかじめ準備しておけることなど、実はあまりない。大人の仕事は常にやっつけ仕事、恋はいつでも初舞台だ。


☆ 自分が嫌われているように思っている人は、実際は嫌われていないことのほうが多い。
そもそも、自分が思うほどあんたのことなど誰も気にとめていない。


☆ 人は自分が「うすうす考えていたこと」を、だれかが言ってくれると、「この人は物のわかった人だ」と思うのだった。人が賛成するのは、いつも「自分の意見」だ。


☆ 「いいね!」ボタンを押してくれた人は意外に人生で助けてくれません。


☆ 地震と放射能とミサイルを気にしながら過ごす日常ってスゲェな。


☆ デジタルデータは劣化しないが、情報をデジタルにした時点で既に大幅に劣化している。


☆ 都会の奴って田舎は自分たちを楽しませてくれる遊園地で、住人はそのスタッフくらいにしか思ってなさそう


☆ 「みろよあの女,服の下は裸だぜ」。これは、なかなかすごい言葉ですね。事実を述べただけなのに、狂気が伝わってくる。


☆ 教育というものは、男にとってオッパイ以外のことを考える修業である。気を散らすために大して役にも立たないことを覚えさせられるのである。それさえ授業を始める前に説明してもらえれば“何のために?”とか、若い頃、悩まずに済んだはずだ。
 それにしても“オッパイ”はいい。歳を取れば取るほど思うのは、どんどん教育から解放され本能に戻るからだ。


☆ 一緒にすごした時間の長さや物理的距離の近さ、そういうものがすべて意味を持たなくなる瞬間がある。


☆ 頑張れば何でもできると思うのは幻想だと僕は思う。
成功した人にインタビューするからそうなるのであって、
失敗者には誰もインタビューしてないじゃないですか。


☆ W杯見てたら、おばあちゃんが「何でこの人達は手を使わないの?」って聞いてきたから「オランダってのは格上で、お前ら日本なんて手を使わなくても勝てるってなめられてるの。そしたらこっちも使うわけには行かないじゃん」って説明したら「いつの時代も男は馬鹿ね。」っていう重みある言葉を頂いた


☆ 「なぜ、そんなことをしたのか?」
  と問い詰めるのではなく、
  「本当は、どうしたかったの?」
と訊くのだ。


☆ 楽しいことにどんどんとびついていこう
それ以外の悲しいことや辛いことは勝手に向こうからやってくるんだから


☆ > 関村直人(東大)「炉心溶融(メルトダウン)はありえない」
> 大橋弘忠(東大)「プルトニウムは飲んでも安心。どうして信じない!?」「素人は引っこんでろ」
> 諸葛宗男(東大)「安心安全心配なし」
> 中川恵一(東大)「プルトニウムは重いので飛ばない」
> 有冨正憲(東工大)「1号機の煙は爆破弁の成功です」
> 松本義久(東工大)「遺伝子の神様があなた達の精子を守ってくれてます」
> 澤田哲生(東工大)「放射能が漏れることはない 事態は悪化しない 汚染水は漏れない」


☆ ちょっとツイッターは俺にむいてないですね。ノーギャラでやるような事じゃない。辞めます。


☆ 社会に上手にとけ込んで、うまく友達とやっていながら、自分が何者かすらわかっていない人もたくさんいます。


☆ 聖徳太子のいう「和を以て貴しと為す」は「事理を明らかにすれば、争い事は収まる」という意味である。しかし殆どの日本人は意味を吐き違い「事理を明らかにしようとする人を“理屈やで協調性がなく、和を乱す協調性のない人”と逆の解釈をしている。


☆ かつて、気象庁職員による野球大会が
雨で中止になったことがあったそうだ。


☆ 類は友を呼ぶってのが正しいなら友達いない人は相当なオリジナリティを持ってることになるな


(以上ぜんぶ引用)







けっきょく、どうしたいの?

2012-05-04 08:27:01 | 日記

低気圧のせいか、このところ気分がアップしません。

なんども書き、このブログでも引用したりしてるが、ぼくは時事的な“情報と意見”を、このパソコン上で見ています(“テレビ”ニュースや解説番組もたまに見るが)

現在、いちばん大きな流れとしては、既存(大)メディア対ネットメディアということが言われているが、ぼくにとっては、どっちも同じです(パソコン画面上にある)

テレビについても、結局、ネットメディアのヒーロー“津田大介”もNHK“テレビ”に出るし、“一般意志・東浩紀”もレギュラー番組を持つわけだ。

ぼくは、それが論理的に(倫理的に!)“悪い”とも言えないが、結局同じなんです。
つまり“有名人”は、大メディアでもツイッターでも活躍なさるわけです。

こういう“社会システム”は、ぜんぜん、変わりようがありません。

むしろ“ソーシャルメディア”は、有名人がさらに有名になるための宣伝メディアということです。

“無名”のぼくが上記のように書くと、“ルサンチマン”と思われるでしょうが、たしかに無名人は永遠にルサンチマンを抱くように“なっている”わけ。


ちょっと話題を変える。

たとえば、ぼくにとっては、“国家”とか“憲法”というのは(というのも)“必要悪”なんです。
なければいいのに、ないとやってけないらしいから、しかたがないなあー、と。

ぼくの理想は、“仕切り”とか“掟、ルール”とかがなくても、ぼくとぼく以外の人間が、なんとなくそれほど喧嘩せず(互いを損なわず)やっていける“社会”ならいいなー、と。

だから、国家については、立岩真也の《分配する最小国家》を支持します。

憲法についても、守るとか改正するとかに熱心な人に違和感を感じます。
ある意味で、“偉いなー”と思う。

でも紙に書いた“法”がいくら立派でも、それが実現-運用されなければ、しょうもない。

たしかにものごとは循環するから、紙に書いたものが良くなければ、“現実”も良くならないということもあるんでしょう。

でも、紙に書いたことが素晴らしくとも、現実は良くならないこともあります。

“各論”ではけっこういいことを言っていても、“総論”でくるっているひともいます。


たしかに現在、“いろんな意見”を読むことができます。

それは“ただひとつの意見しか読めない”よりは、いいことなんです。

しかし毎日、“いろんな意見”を読み続けていると、気分が高揚してくるより、単に疲れてしまうのは、ぼくがもう若くないからなんでしょう(残念)


そしてどうしても思ってしまう。

いったい君らは、けっきょく、どうしたいの?

その質問をぼくにされても、わかりませんが!(笑)

ただぼく自身も(この歳になっても)明瞭でないのだが、ぼくにとって重要なのは(まあこの人生で)、どうも世間で論じられていることとは別のことだ、という感じはいつもつきまとっています。