Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

海と砂漠;漂泊と交通;社会について

2012-02-12 14:06:57 | 日記


★ 『万葉集』や『源氏物語』がわが国の各時代を通じて精神的に高く評価されてきたと考えるなら、それは間違いだろう。それらは基本的に子女または、いわゆる文弱の徒の慰みの対象だった。各時代を通じて玉座に坐りつづけていたのは海彼から来た人間の詩および文章、漢詩文だった。この事情に変化が起きるのは明治開国によってだ。欧米勢力への屈服による開国によって、人間の詩は千数百年座りつづけた玉座を追われる。

★ しかし人間の詩を追って神の歌が玉座に復したわけではない。新しい玉座の主は欧米文化とともに入ってきた人間の小説だ。むろん欧米文化にも人間の詩はあったし、その移入の試みもあった。いわゆる新体詩だが、これが玉座に座るには受け入れる言語=和語脈があまりにもひ弱すぎた。結局、新体詩は短歌や俳句とひとくくりに詩歌ということになり、流浪漂泊の新しい仲間になったにすぎなかった。新しい玉座の主は人間の小説だった。

★ それから百年、人間の小説はいまなお玉座に坐り続けている。しかし、人間の小説はほんとうにこの国に定着したのだろうか。かつて千数百年間、玉座に座りつづけた人間の詩がついにこの国に定着せず、流浪漂泊どころか消滅してしまったに等しいように、ひょっとして人間の小説もこの国についに定着しないのかもしれない。

★ 日本語の古典を、文学史を、虚心に読みなおして、日本語文学の本流が流浪漂泊にあったことを自覚し、詩歌においては間違っても玉座に復しようなどとは考えないこと、小説においてはみずから玉座を下りること。表現者としては文学という名の帝王の代作者となり、できるかぎり無名性を目指すこと。ことは日本文学に限るまい。流浪漂泊と無名性とは文学の、そして人間の最も理想的なありようではあるまいか。

<高橋睦郎『読みなおし日本文学史』”おわりに”(岩波新書1998)>




★ しかし、交通空間は都市と同義ではない。都市がある定住をもつのに対して、交通空間は目に見えないからだ。交通空間を考察するのにふさわしいのは、海と砂漠である。

★マルクスは『資本論』のなかでこういっている。中世において、ユダヤ人のような商業民族は、エピクロスがいう神々が世界の孔のなかに住んでいるように、共同体の間の孔のなかにいる、と。しかし、このメタファーはつぎのように逆転できるだろう。共同体の方が、海あるいは砂漠のような交通空間のなかに浮かぶ島にすぎない、と。共同体が拡大し、他の共同体との交通がはじまったというのは虚偽であり、それ自体各共同体の起源神話である。

★ 共同体が成立すると同に、システムの内部と外部の分割が生じ、境界が生じる。それ以前の交通空間、つまり内も外もないような空間は、このとき、「外部」、いいかえれば、諸共同体の「間」にあるとみなされる。しかし、事実上、いかなる共同体も、完全に自閉的ではありえない。ミシェル・セールの比喩を借りていえば、共同体(個体)は、いわば液体のなかに浮かんでおり、液体に浸透されている。

<柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』(講談社学術文庫1999)>




★ 前世紀の後半、環境や資源の危機にも促され、この社会を疑う人たちが現われた。ただその疑いを現実に着地させることが難しかった。

★ 生活欄で「がんばりすぎない」ことが言われ、同じ新聞の政治経済欄に「新世紀を生き抜く戦略」がある。それを矛盾と感じる気力も失せるほど社会を語る言葉は無力だろうか。いま考えるに値することは、単なる人生訓としてでなく、そう無理せずぼちぼちやっていける社会を実現する道筋を考えることだ。足し算でなく引き算、掛け算でなく割り算することである。もちろんそれは、人々が新しいことに挑戦することをまったく否定しない。むしろ、純粋におもしろいものに人々が向かえる条件なのである。

★ 繰り返すが、この社会は危機ではないし、将来は格別明るくもないが暗くはない。未来・危機・目標を言い立てる人には気をつけた方がよい。

<立岩真也“つよくなくてもやっていける”朝日新聞2001-01 ―『自由の平等』(岩波書店2004)>


★ 社会について何か考えて言ったからといって、それでどうなるものではないことは知っている。しかし今はまだ、方向は見えるのだがその実現が困難、といった状態の手前にいると思う。少なくとも私はそうだ。こんな時にはまず考えられることを考えて言うことだ。考えずにすませられるならそれにこしたことはないとも思うが、どうしたものかよくわからないこと、仕方なくでも考えなければならないことがたくさんある。すぐに思いつく素朴な疑問があまり考えられてきたと思えない。だから子供のように考えてみることが必要だと思う。

<立岩真也『自由の平等-簡単で別な姿の世界』の序章“世界の別の顔”>








まだ寒い週末は本を読んで過ごそう

2012-02-11 12:27:57 | 日記


どうにも好きな顔、というものがあるね。

下のブログの大江健三郎さんの顔もよい。

好きな女性の顔というのは、多々あれど、好きな男性の顔というのは、むずかしい。

“近年”どうにも好きな顔というのは、ここに掲げた顔である。

ところでタイトルの話題については、いまぼくの机の上に6冊の本がある。
この土、日にうまく読めるだろうか;

◆ エドマンド・ホワイト『ジュネ伝』
◆ 堀田善衛『ミシェル 城館の人』
◆ ケネス・クラーク『ザ・ヌード』
◆ 柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』
◆ 立岩真也『自由の平等』
◆ 中上健次『日輪の翼』




* 付録;ちょっといい話

堀田善衛の『天上大風』(ちくま学芸文庫2009)にあった(亡くなった人々についての、“ほんの少しのこと”);

★ミシェル・フーコー(57歳)
パリの行きつけの本屋で、この著者のある本を是非に、ともとめたことがあった。ところが生憎、どこにも在庫がなかった。するとその本屋の主人が、30分ほど待っていてくれ、と言って、やがて、フーコーのその本をもって来た。どこで手に入れたのか、と問うと、
「大学の研究室へ行ってムッシュ・フーコーからもらって来た。だからこの本はタダだ」
と言った。フーコー氏自身は、私は知らない。





* いまぼくの横で鳴っているのは、“JAN GARBAREK SELECTED RECORDINGS:ECM”です。






<倫理>という言葉に注目する

2012-02-11 11:18:53 | 日記


あるひとつのメッセージは、メディアによって、どのように報道されるか。

大江健三郎らの記者会見報道をいくつかのメディアから引用。

注目は、大江健三郎の<倫理>という言葉。

この言葉自体を報じたメディアと報じないメディアがある、ということ。
しかもこの<倫理>という言葉が、各メディアによって異なった“表現”として報じられていることについて。

ずっと<倫理>という言葉自体が、うさんくさい、居丈高な言葉であり、たとえば<モラル>という言葉とはちがったニュアンスをもつようになった日本語であることについて。



★ 毎日新聞 2012年2月9日 東京朝刊
<脱原発:大江氏ら10万人集会 「今、決断しなければ」--東京で7月>

 脱原発運動を呼びかけている作家の大江健三郎さんらが8日、日本外国特派員協会(東京都千代田区)で記者会見し、停止中の原発を再稼働しないよう立地自治体の首長に要請することや、7月に10万人規模の脱原発集会を開くことを発表した。大江さんは「倫理的に考えて、今、原発の廃止を決断しなければならない」と呼びかけた。

 大江さんは脱原発の署名運動「さようなら原発1000万人アクション」の呼びかけ人の一人として、ルポライターの鎌田慧さんらと会見した。7月16日に、昨年9月の約6万人を上回る10万人規模の集会を代々木公園(渋谷区)で開くという。【池田知広】


★ 愛媛新聞 2012年02月09日(木)
<再稼働反対を要請へ 大江健三郎さんら>

 脱原発を求めて活動する作家の大江健三郎さん(内子町出身)らが8日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で記者会見し、停止中の原発の再稼働を認めないよう求める、愛媛県知事や伊方町長など全国の原発立地自治体首長宛ての要請文を発表した。

 要請文は、原発の運転期間を例外的に60年まで認める原子炉等規制法改正案の提出などを挙げて、政府対応を「無反省に事故前の状況に回帰しようとしている」と指摘。「福島原発事故で明白になったことは安全な原子力発電などあり得ないという事実」とし、再稼働を容認しないよう主張している。

 会見で大江さんは「原発を全廃すると決意しようではないか。貧困や混乱が生じても明日の日本の子どもたちの生活はある。それが大切にしなくてはいけない唯一の倫理だ」と訴えた。


★共同通信  2012/02/08 17:22
<大江健三郎さんら脱原発を要請 立地首長に、夏10万人集会>

 脱原発を目指し活動している作家の大江健三郎さんらが8日、東京都内で、停止中の原発を再稼働しないよう立地自治体の首長らに求める要請文を発表した。今後、全原発の立地自治体首長らに手渡す予定。7月16日に東京・代々木公園で10万人規模の集会を開くことも明らかにした。

 要請文は「福島原発の事故から明白になったことは『安全な原子力発電』などあり得ないという厳然たる事実です。核と人類は共存できない」と指摘。「再稼働を認めず、代替エネルギーの道をともに考え、原発のない社会へ向かいましょう」と訴えている。


★ 読売新聞 2012年2月9日10時44分
<大江健三郎さんら「原発廃止、決断を」>

作家の大江健三郎さんら、原発廃止を求めて署名活動などを行っている市民団体のメンバーが8日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で記者会見し、原発が立地する自治体の首長に対し、停止中の原発の再稼働を認めないよう要請することを明らかにした。

 各地の団体などを通じ、近く各首長に要請文を提出するという。

 この日、会見したのは、「さようなら原発一千万人署名市民の会」。会の呼びかけ人を務める大江さんは、「原発事故がもう起こらないとする根拠はない。将来の子供たちのために原発廃止を決断しなければならない」と語った。


★ 朝日新聞 2012年2月9日11時43分
<大江健三郎さんら「原発再稼働やめて」 首長に要請文>

 脱原発をめざす作家の大江健三郎さんらが8日、東京都内で会見を開き、全国各地の原発立地自治体の首長にあてて、停止中の原発を再稼働させないよう求める要請文を発表した。7月16日には都内で10万人規模の集会を予定していることも明らかにした。今月11日には東京・代々木公園で集会が開かれる。昨年9月、東京・明治公園での集会には約6万人が参加した。

 会見で大江さんは「倫理という言葉を、日本人は新しい意味で使い始めた。倫理に責任をとろうとするなら、今、原発を廃止するという決断を示さなければならない」と語った。

 大江さんは「さようなら原発一千万人署名市民の会」の呼びかけ人の一人。呼びかけ人はほかに作家の落合恵子さん、ルポライターの鎌田慧さん、音楽家の坂本龍一さん、詩人・作家の辻井喬さんら。


★ 東京新聞 2012年2月9日 朝刊
<脱原発 7月に10万人集会>

 脱原発を訴え、昨年九月に東京・明治公園で「さようなら原発五万人集会」を開いた作家の大江健三郎さんらが八日、都内で記者会見し、七月十六日にも東京・代々木公園で十万人規模の「さようなら原発集会」を開催すると発表した。また、既存の原発の計画的廃止などを求める要請文を、立地自治体の首長らに近く届ける。

 呼び掛け人は他に、ルポライターの鎌田慧さんや作家の落合恵子さんら。要請文では「福島原発事故から明白になったことは、『安全な原子力発電』などないという厳然たる事実。核と人類は共存できない」「決して再稼働を認めることなく、代替エネルギーの道をともに考え、原発のない社会へ向かいましょう」と訴えている。

 現在、全国の原発のうち五十一基が停止中。鎌田さんは「原発がなくても困らない現実があるのに、政府はなんとかして再稼働させようとしている」と指摘。大江さんは「事故はまた起きると思う。明日の子どもたちに倫理的な責任を取ろうと思うなら、原発を今廃止するという決意しかない」と述べた。

 昨年九月の集会には約六万人(主催者発表)が参加。メンバーは脱原発を求める一千万人分の署名も呼び掛けており、既に約五百万人分が集まった。今月十一日にも代々木公園で署名活動を行う。






瓦礫の中の言葉;夢の中の言葉;突破する言葉

2012-02-08 15:24:40 | 日記


昨日仕事の帰りに辺見庸『瓦礫の中から言葉を』を買って、昨夜と今日起きてからずっと読み続け、いま読了した。

“3.11以後”、ぼくが感じ続けていたこの状況へ発せられる言葉への違和感(そして自分が読み得る言葉への違和、自分の言葉への違和)が、この本において正確に記述された。

この本の言葉によって、辺見庸は、この現在に言葉を与えた。

そしてそのことは、まさしく、“過去の人々(もう死んでいる人々)”の言葉を参照することによって記述することができた。

石川淳、原民喜、石原吉郎、折口信夫、川端康成、串田孫一、堀田善衛・・・・・・
ベンヤミン、ブレヒトの言葉もある。
<引用>がある。
原爆投下に関する、昭和天皇の言葉=引用(1975年10月)もある。
そして最後に宮沢賢治の(最後の)詩が引用される。


そして、辺見庸自身の“現在の言葉”がある。
“橋―あとがきの代りに”にしるされた、子どものわたしが見る橋上の老人の幻影である。


この本から引用すべき文、引用したい文は、たくさんあった。
だからこそ、それらすべてを、ここに、引用することはできない。

この本を読んでほしい。


サンプルとして、一ヶ所を引用する;

★ 折口信夫は関東大震災を見て「あゝ愉快と 言つてのけようか。/一挙になくなつちまつた。」と詩にうたい、川端康成は短編の登場人物に、関東大震災は人間が絶対化してきたことを一気に相対化したと、こともなげに言わせました。東京大空襲の記憶にかさね串田孫一さんが幻視した人間滅亡後の眺めというのは、「とてもきれいな風景」で「さばさばしている」というものでした。堀田善衛は堀田善衛で、「階級制度もまた焼き落ちて平べったくなる」という、「さわやかな期待」をもちました。

★ これらの表現は、それぞれに思いの色合いがことなるものの、完膚なきまでに壊された人とその社会のその先に、いったいなにが誕生してくるのか見てみたいものだという、各人にあいつうじる切望、内面のつよさや不思議な明るさ、もっと言えば、“ふとどきで不謹慎な明るさ”をわたしは感じます。ふとどきで不謹慎な言葉というのは、そうでない襟を正した言葉よりも、ときとして逆説的な明るさを醸し、人に救いを感じさせたりするものです。

★ 他方、このたびの東日本大震災では、未曾有の災厄とか「言葉もありません」というたぐいの常套句が語られるだけで、出来事とその未来にかんする自由闊達な言語化はあまりこころみられず、瓦礫のそのはるかむこうに新しい人と新しい社会を見たいという焼けるような渇望も感じられません。「復旧、復興」の連呼に新しい理念のひびきはありません。

★ 全的破壊のそのあとに、かつては(一部ではあったでしょうが)生じたという“さばさば”感もこのたびは皆無のように思われます。ふとどきでも不謹慎でもない、大震災前と同じ空洞の言葉、手垢のついた新聞用語、テレビ用語、CM用語、ネット用語、携帯用語が、傷ついた人びとの感官をいっそう目づまりさせて、絶望へと追いたてています。

★ すべてを震災ビジネスが吸収しつつあります。言葉はいま、言葉として人の胸底にとどいてはいません。言葉はいま、自動的記号として絶えずそらぞらしく発声され、人を抑圧しているようです。

<辺見庸『瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ(NHK出版新書2012)>






* 余談

昨夜、この読書中に、たまたまテレビの“週刊鉄学”とかいう番組にゲスト出演した、内田樹を見た(内田樹というひとを見たことがなかったので、どんなひとだろう?と思って)

この番組で武田鉄矢というひとは、“内田先生”の本を積み上げて、褒めまくった(笑)
目の前で絶賛されて“内田先生”は、ニヤニヤ。

その内田先生が言ったのではないが、武田鉄矢は、この震災で一番感動したのは天皇陛下の言動だったと言ったのだ。
内田先生は、それにたいして、なんら言葉を発しなかった(発せなかった)。

ぼくには、内田樹が、その発言に、賛成なのか反対なのか、“わからない”のである。

ぼくは、どっかの婆さん爺さんが、被災地への天皇陛下言動に“感動”しても、かまわない。
しかし、テレビにおいて、そう発言するなら、そのことに責任を感ずるべきだ。
その根拠を、言葉として語らなければ無責任だ。
すくなくとも“鉄学!”を標榜するならば。

“アレには、みんな、感動したハズでしょう(日本国民ならば)”―というような発言=生き様こそ、まったくの空語=空虚なのだ。

もちろん“武田鉄矢”とか“内田樹”などというタレントが問題では、ぜんぜんない。

テレビにおいて、言葉が死んでいることが、問題だ。

このような番組を見て、ぼくは、テレビの四角い画面から、まったくの空虚があふれ出してくるのを見ている。

しかし、ぼくは辺見庸のこの一冊の小さな薄く安い本を手にし、そこでの言葉の手触りに復帰し、自分を取り戻す、<世界>に復帰するのだ。

それもまた、抵抗である。

<あなた>にも可能な抵抗なのだ。







瓦礫の中から言葉を わたくしの<死者>へ

2012-02-06 15:39:08 | 日記


時々書店に行っているのに辺見庸の新刊に気づかなかった(最近、“新書”コーナーを見る気がしなくなっていた)

菅啓次郎のブログで、彼が読売新聞でこの本の書評をしたのを知り、この辺見庸の新刊新書の存在を知り(この本の元となったテレビ番組も見損なった)、検索してこの書評を読んだ、これを貼り付ける。

明日、仕事の帰りに書店で購入する;



<震災伝える魂の叫び>

『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』 辺見庸著 (NHK出版新書)
評・管啓次郎(詩人・比較文学者・明治大教授)

 3月11日が近づいている。やがて1年。この間、日本語は、大震災の経験を深める言葉を発してきただろうか。

 われわれが生きるこの言語、この社会は、新しい言葉に立つ新しい社会のあり方を、本気で探ろうとしているのか。

 宮城県石巻出身のこの作家=詩人の新著は、魂の叫びだ。ただ既存の社会と集団を維持し大切なことを何ひとつ語らせずにすませようとする自堕落な言語に、辺見庸は徹底的な否をつきつける。「大震災は人やモノだけでなく、既成の観念、言葉、文法をも壊したのです」。あまりに多くが失われ、多くの人が亡くなった。彼にとっては故郷が破壊され、心に直接つながる多くの死者が生じた。

 だが沈黙にしずんではならない。破壊の瓦礫の中から、言葉を立ち上がらせなくてはならない。巨大な悲劇が残していった痕跡を人間が共有すべき経験として深化させ、変わるべきものの変化へのきっかけとするには、言葉がみずからを乗り越えるようにして、新たな局面を探るしかない。生きられた「個」の経験が、沈黙とのぎりぎりの界面から言葉を発すること。そしてすでに発話の力を奪われた人々のためには、代わって想像力が失われた言葉を拾い、思い出し、伝える努力をするべきだろう。

 だから本書は、詩と小説の言葉に対する「立ち上がれ」という呼びかけでもある。たとえば原発メルトダウンをめぐるマスメディアの報道言語にも、またたくまに辺りにたちこめて感情の同調や言説の同期を強要する日本社会の暗黙の言語にも、著者は激しく苛立つ。

 その対極にあるのは「個」のヴィジョンに立つ言葉だ。原民喜、川端康成、堀田善衛ら先行者と対話するようにして、著者は生きた言葉を探る。生命を希求する者たちの連帯を探る。その探求の試みにちがいない著者自身の詩作品は震災直前に始まり、震災後いっそう強度を増し、本書にもそのいくつかが収録されている。

(2012年2月6日 読売新聞)







内田樹よ、君はメディアではないのか

2012-02-05 13:46:03 | 日記


ひとの悪口を言うのは、“ひとから、あまり感じの良くないひとだ“と思われることであり、なによりも、ひとの悪口を言って(自分の)気分がせいせいした、などと思う自分に自己嫌悪をもたらすのである。

けれども(笑)、これまでもそうだったのだが、“現在”チマタには、消費税を上げること以外になんの“情熱”も“政策”ももたない、“どぜう”首相を始めとして、連日、連夜、不快な顔のみが露出している。

これらの不快な顔を、“伝達する”のが、<メディア>である。

そこで、この<メディア>を“批判する”のが、流行となっているようである。

流行に機敏なひとは、ぼくのように地道に、だれも読まないブログで、<天声人語>を批判し続けてきた“ぼく”のよーではなく、“今こそ”トレンディに、<メディア>について語る。

内田樹という“流行作家”は、最新ブログにおいて、フランスの雑誌から依頼された”日本のメディアを批判する”文章を、そのまま掲載している。

この文章(それなりに長い)は、内田のブログをクリックすれば“全文”読めるので、ここに<引用>しない。

ここでは、その書き出しと終結部だけを引用した上で、ぼくの感想を述べる;

☆ 2011年3月11日の東日本大震災と、それに続いた東電の福島第一原発事故は私たちの国の中枢的な社会システムが想像以上に劣化していることを国民の前にあきらかにした。日本のシステムが決して世界一流のものではないことを人々は知らないわけではなかったが、まさかこれほどまでに劣悪なものだとは思っていなかった。そのことに国民は驚き、それから後、長く深い抑鬱状態のうちに落ち込んでいる。(書き出し)

☆ 私たちの国のメディアの病態は人格解離であり、それがメディアの成熟を妨げており、想定外の事態への適切に対応する力を毀損している。いまメディアに必要なものは、あえて抽象的な言葉を借りて言えば「生身」(la chair)なのだと思う。同語反復と知りつつ言うが、メディアが生き返るためには、それがもう一度「生き物」になる他ない。(終結部)
(以上引用)



ここで内田樹が言っていること(書いていること)は、まちがっているだろうか、否。

この論旨だけをたどるなら、内田樹は、正しい。

ぼくの“批判”は、ただ一点である。

それはタイトルに掲げた。

多少、勉強し(他人の本を読み)、多少の学問的キャリアを経れば、“論旨的に正しい”文章など誰にだって書ける。

もちろんそういうキャリアがあってさえ、正しい文章が書けない“学者”がたくさんいらっしゃることのほうが、“驚異(脅威)”ではあるのだが、そういう“学者”とか“論説委員”とかの文章は、いずれ必ず死滅する(忘れ去られる、ただ消費される)のだから、さっさと死んでいただくほかない。

内田樹の言い方に沿えば、《2011年3月11日の東日本大震災と、それに続いた東電の福島第一原発事故》以後、ぼくたちにわかったことは、《この国の中枢的な社会システム》が劣化したというより、この国の中枢が劣化していない時などというものが、この歴史上(とくに“戦後”)いったいあったのだろうか?という根深い疑問である。


政治家と官僚(機構)が劣化したのか?

大企業と金融資本主義の強欲が悪いのか?

“メディア”とそこに巣食う“専門家”、“有識者”、“学者先生”が劣化したのか?

いつまでも騙され続け、まったく抵抗への意志を去勢された、無名の人々の“一般意志”が腐っているのか?

《人格乖離》しているのは、誰なのか、どの“日本人”なのか。
誰なのか?    誰か?

《あえて抽象的な言葉を借りて言えば「生身」(la chair)なのだと思う》
と内田樹が言う(書く)とき、なぜ<生身>は、《抽象語》なのか?

内田樹は、<生身>なのか?

内田樹は、生身として、自分の<言説>を、記述し得ているのか?

これは“個人批判”ではない。

《内田樹》という名の、抽象物を、その他言説の抽象物を撒き散らすだけの、抽象的人間の代表物として、批判している。

この名(内田樹)のかわりに、《高橋源一郎》、《宮台真司》、《東浩紀》、《茂木健一郎》、《中沢新一》、《平野啓一郎》、《保坂和志》などなどの<名>を代入しても、同じである。

もちろんぼくの言うことも(書くことも)、この批判をまぬがれない。
ただぼくが、有名人でないだけ(影響力が皆無に近いだけ)、その罪も軽減されるだけである(笑)

<生き物>である私が、言葉を発する(ことがある)。

そして、私でない生き物の言葉を聴く。




* このブログは、この下のブログと“関連して”います。
下記ブログをこのブログと“関連させて”読んでいただきたい。







2011年の本

2012-02-05 11:47:30 | 日記


なにを書いたらいいんだろう?  迷う。

ぼくはこの“ブログ”というものをずいぶん長くやってきた。
その間も、ずっと迷いがなかったわけじゃない。
けれども比較的スイスイ書けた時期もあった。

いつも“ブログなんて自分にとってたいして重要なモンじゃない”と思って、そのウエイトを軽く見積もってきた。

“読者”のことも気にしない、アクセス数も気にしない、というスタンスでいたかった。
“時事ネタ”を扱えば、アクセス数が増えるのはわかっているが、なんせ、その時事ネタに関心がなくなったし、たいして“自分の意見”があるわけじゃない。

<引用>をメインにするといっても、そんなに本を読めるわけじゃないし、なによりも読んでいる本に、そんなに“引用したい”文章が頻発するわけじゃない。

つまり、ぼくはこのブログに“引用しない”本も読んでいる(数はそう多くはないが)
つまり、読んで、“ダメな本”というのも、たくさんある。

あるひとが生涯に巡り会う“本”や“ひと”の数が、そんなに多いわけではない。

たぶん現在、<本>を“情報”として読む人が多く、それはそれで、ぼくが、“悪い”という根拠もない。

自分の<生活>に“必要な”本とは、何か?
ということが問題なのである(笑)

(たとえば)認知症の家族を抱えるひとに、必要な<本>はなにか?
というような問題である。

もし<情報>が必要なら、それは<本>から得るのでなくともよい、ということもある。

以上は“前置き”であって、以下に、立岩真也の“2011年の本”についてのツイートと“みすず”に載った文章を<引用>する。

ここでも“問題”は、ここに挙げられた5冊の本を、ぼくは読んでないどころか、その存在さえ知らなかったということだ。
しかも、ここで知っても、ぼくがこれらの本をすぐ買い、すぐ読むというわけでもない。

ぼくには別に、“読みたい”本があるらしいのである。

あるいは、“世の中”の人々も、自分の“読みたい本”を持っている(あるいは本など読む必要を感じない)のである。

ぼくは(せめて)今年は、立岩真也自身の本、に取り組むつもりだ(すでに『私的所有論』という値段の高い本は入手した;笑)



◆ShinyaTateiwa 立岩真也
『みすず』1/2月号 読者アンケート特集、着。私の分は http://www.arsvi.com/ts/20120001.htm 手近にあった本ばかりですいません(新刊ほとんど買わないこともあり)。
1時間前


◆2011年読書アンケート
立岩 真也 2012/02 『みすず』54-1(2012-1・2 no.):  http://www.msz.co.jp

 昨年は、私の勤め先の出版助成の制度が拡充されたりしたこともあって、教員以外でその場に関わる人たち(大学院生・修了者)関係の本が山ほど出た(積年の成果が一挙にということなのでもうそんなことはないと思うが、一ダースほどになる)。例えば橋口昌治『若者の労働運動――「働かせろ」と「働かないぞ」の社会学』(生活書院)といったものがその一冊なのだが、並べていくとたくさんになり、選ぶとなるとなにか「配慮」のようなものが働いてしまってよろしくないと思う。そこでこのたびは、その職場・学校と直接関係ないもの含め関係あるもの含め、ここしばらくやってきた(これからもやっていくことになる)障害やら病やらに関係する、しかし結局はみな顔を知ってしまっている人たちの本を発行順に並べる。

 ①渡邉琢『介助者たちは、どう生きていくのか――障害者の地域自立生活と介助という営み』(生活書院)。
 ②定藤邦子『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝の会を中心に』(生活書院)
 ③野崎泰伸『生を肯定する倫理へ――障害学の視点から』(白澤社)
 ④児玉真美『アシュリー事件――メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』(生活書院)
 ⑤新山智基『世界を動かしたアフリカのHIV陽性者運動――生存の視座から』(生活書院)

 ①②は知っている人は知っているが、知らない人はまったく知らず、そして古いことは知っている人も少なくなっていっている過去とそして現在を、とくに――少なくとも私はよく知らない――関西でのことを詳しく――もっと詳しく、とも思うところがあるが――書いている。
 ③は題名の通りの本。④は題名だけでわかる人はとても少ないはず。出版社による紹介では「アメリカの六歳になる重症重複障害の女の子に、両親の希望である医療介入が行われた――1、ホルモン大量投与で最終身長を制限する、2、子宮摘出で生理と生理痛を取り除く、3、初期乳房芽の摘出で乳房の生育を制限する――。(以下略)」
 ⑤は、この手の本はとりわけわがくにでは売れないので、出版助成も受け出版社も努力してくれたが高くなってしまったが、しかしこちらのネット販売では3割引きでも売っているので、買ってください。

 それにしてもどうしたものかと思う。ことのよしあしは別として、一部の愛玩品のようなものを別として、文字というか情報が安くてよいことになっている。拙著――年末に村上潔と『家族性分業論前哨』(生活書院)――の様子を見ていてもそんな感じだ。今年中に電子書籍の書店を始めてもらおうと考えている。






BITCHES BREW

2012-02-05 00:26:35 | 日記

リビングからぼくの小さな部屋にオーディオセットを移動して、”BITCHES BREW”を小音量で聴いた。

グールドのバッハ(”TOCCATAS”)も聴いた。

ぼくは本を読みながら音楽を聴かないが、今日はそうしてみた。

時々、本を置いて音楽を聴くのは、よい。

本は『黄金探索者』と『太平洋の防波堤』だった。

そろそろ、ヴィヴァルディのチェロ協奏曲とグールドの”Goldberg”を聴いて寝るとしよう。