Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

内田樹よ、君はメディアではないのか

2012-02-05 13:46:03 | 日記


ひとの悪口を言うのは、“ひとから、あまり感じの良くないひとだ“と思われることであり、なによりも、ひとの悪口を言って(自分の)気分がせいせいした、などと思う自分に自己嫌悪をもたらすのである。

けれども(笑)、これまでもそうだったのだが、“現在”チマタには、消費税を上げること以外になんの“情熱”も“政策”ももたない、“どぜう”首相を始めとして、連日、連夜、不快な顔のみが露出している。

これらの不快な顔を、“伝達する”のが、<メディア>である。

そこで、この<メディア>を“批判する”のが、流行となっているようである。

流行に機敏なひとは、ぼくのように地道に、だれも読まないブログで、<天声人語>を批判し続けてきた“ぼく”のよーではなく、“今こそ”トレンディに、<メディア>について語る。

内田樹という“流行作家”は、最新ブログにおいて、フランスの雑誌から依頼された”日本のメディアを批判する”文章を、そのまま掲載している。

この文章(それなりに長い)は、内田のブログをクリックすれば“全文”読めるので、ここに<引用>しない。

ここでは、その書き出しと終結部だけを引用した上で、ぼくの感想を述べる;

☆ 2011年3月11日の東日本大震災と、それに続いた東電の福島第一原発事故は私たちの国の中枢的な社会システムが想像以上に劣化していることを国民の前にあきらかにした。日本のシステムが決して世界一流のものではないことを人々は知らないわけではなかったが、まさかこれほどまでに劣悪なものだとは思っていなかった。そのことに国民は驚き、それから後、長く深い抑鬱状態のうちに落ち込んでいる。(書き出し)

☆ 私たちの国のメディアの病態は人格解離であり、それがメディアの成熟を妨げており、想定外の事態への適切に対応する力を毀損している。いまメディアに必要なものは、あえて抽象的な言葉を借りて言えば「生身」(la chair)なのだと思う。同語反復と知りつつ言うが、メディアが生き返るためには、それがもう一度「生き物」になる他ない。(終結部)
(以上引用)



ここで内田樹が言っていること(書いていること)は、まちがっているだろうか、否。

この論旨だけをたどるなら、内田樹は、正しい。

ぼくの“批判”は、ただ一点である。

それはタイトルに掲げた。

多少、勉強し(他人の本を読み)、多少の学問的キャリアを経れば、“論旨的に正しい”文章など誰にだって書ける。

もちろんそういうキャリアがあってさえ、正しい文章が書けない“学者”がたくさんいらっしゃることのほうが、“驚異(脅威)”ではあるのだが、そういう“学者”とか“論説委員”とかの文章は、いずれ必ず死滅する(忘れ去られる、ただ消費される)のだから、さっさと死んでいただくほかない。

内田樹の言い方に沿えば、《2011年3月11日の東日本大震災と、それに続いた東電の福島第一原発事故》以後、ぼくたちにわかったことは、《この国の中枢的な社会システム》が劣化したというより、この国の中枢が劣化していない時などというものが、この歴史上(とくに“戦後”)いったいあったのだろうか?という根深い疑問である。


政治家と官僚(機構)が劣化したのか?

大企業と金融資本主義の強欲が悪いのか?

“メディア”とそこに巣食う“専門家”、“有識者”、“学者先生”が劣化したのか?

いつまでも騙され続け、まったく抵抗への意志を去勢された、無名の人々の“一般意志”が腐っているのか?

《人格乖離》しているのは、誰なのか、どの“日本人”なのか。
誰なのか?    誰か?

《あえて抽象的な言葉を借りて言えば「生身」(la chair)なのだと思う》
と内田樹が言う(書く)とき、なぜ<生身>は、《抽象語》なのか?

内田樹は、<生身>なのか?

内田樹は、生身として、自分の<言説>を、記述し得ているのか?

これは“個人批判”ではない。

《内田樹》という名の、抽象物を、その他言説の抽象物を撒き散らすだけの、抽象的人間の代表物として、批判している。

この名(内田樹)のかわりに、《高橋源一郎》、《宮台真司》、《東浩紀》、《茂木健一郎》、《中沢新一》、《平野啓一郎》、《保坂和志》などなどの<名>を代入しても、同じである。

もちろんぼくの言うことも(書くことも)、この批判をまぬがれない。
ただぼくが、有名人でないだけ(影響力が皆無に近いだけ)、その罪も軽減されるだけである(笑)

<生き物>である私が、言葉を発する(ことがある)。

そして、私でない生き物の言葉を聴く。




* このブログは、この下のブログと“関連して”います。
下記ブログをこのブログと“関連させて”読んでいただきたい。







2011年の本

2012-02-05 11:47:30 | 日記


なにを書いたらいいんだろう?  迷う。

ぼくはこの“ブログ”というものをずいぶん長くやってきた。
その間も、ずっと迷いがなかったわけじゃない。
けれども比較的スイスイ書けた時期もあった。

いつも“ブログなんて自分にとってたいして重要なモンじゃない”と思って、そのウエイトを軽く見積もってきた。

“読者”のことも気にしない、アクセス数も気にしない、というスタンスでいたかった。
“時事ネタ”を扱えば、アクセス数が増えるのはわかっているが、なんせ、その時事ネタに関心がなくなったし、たいして“自分の意見”があるわけじゃない。

<引用>をメインにするといっても、そんなに本を読めるわけじゃないし、なによりも読んでいる本に、そんなに“引用したい”文章が頻発するわけじゃない。

つまり、ぼくはこのブログに“引用しない”本も読んでいる(数はそう多くはないが)
つまり、読んで、“ダメな本”というのも、たくさんある。

あるひとが生涯に巡り会う“本”や“ひと”の数が、そんなに多いわけではない。

たぶん現在、<本>を“情報”として読む人が多く、それはそれで、ぼくが、“悪い”という根拠もない。

自分の<生活>に“必要な”本とは、何か?
ということが問題なのである(笑)

(たとえば)認知症の家族を抱えるひとに、必要な<本>はなにか?
というような問題である。

もし<情報>が必要なら、それは<本>から得るのでなくともよい、ということもある。

以上は“前置き”であって、以下に、立岩真也の“2011年の本”についてのツイートと“みすず”に載った文章を<引用>する。

ここでも“問題”は、ここに挙げられた5冊の本を、ぼくは読んでないどころか、その存在さえ知らなかったということだ。
しかも、ここで知っても、ぼくがこれらの本をすぐ買い、すぐ読むというわけでもない。

ぼくには別に、“読みたい”本があるらしいのである。

あるいは、“世の中”の人々も、自分の“読みたい本”を持っている(あるいは本など読む必要を感じない)のである。

ぼくは(せめて)今年は、立岩真也自身の本、に取り組むつもりだ(すでに『私的所有論』という値段の高い本は入手した;笑)



◆ShinyaTateiwa 立岩真也
『みすず』1/2月号 読者アンケート特集、着。私の分は http://www.arsvi.com/ts/20120001.htm 手近にあった本ばかりですいません(新刊ほとんど買わないこともあり)。
1時間前


◆2011年読書アンケート
立岩 真也 2012/02 『みすず』54-1(2012-1・2 no.):  http://www.msz.co.jp

 昨年は、私の勤め先の出版助成の制度が拡充されたりしたこともあって、教員以外でその場に関わる人たち(大学院生・修了者)関係の本が山ほど出た(積年の成果が一挙にということなのでもうそんなことはないと思うが、一ダースほどになる)。例えば橋口昌治『若者の労働運動――「働かせろ」と「働かないぞ」の社会学』(生活書院)といったものがその一冊なのだが、並べていくとたくさんになり、選ぶとなるとなにか「配慮」のようなものが働いてしまってよろしくないと思う。そこでこのたびは、その職場・学校と直接関係ないもの含め関係あるもの含め、ここしばらくやってきた(これからもやっていくことになる)障害やら病やらに関係する、しかし結局はみな顔を知ってしまっている人たちの本を発行順に並べる。

 ①渡邉琢『介助者たちは、どう生きていくのか――障害者の地域自立生活と介助という営み』(生活書院)。
 ②定藤邦子『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝の会を中心に』(生活書院)
 ③野崎泰伸『生を肯定する倫理へ――障害学の視点から』(白澤社)
 ④児玉真美『アシュリー事件――メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』(生活書院)
 ⑤新山智基『世界を動かしたアフリカのHIV陽性者運動――生存の視座から』(生活書院)

 ①②は知っている人は知っているが、知らない人はまったく知らず、そして古いことは知っている人も少なくなっていっている過去とそして現在を、とくに――少なくとも私はよく知らない――関西でのことを詳しく――もっと詳しく、とも思うところがあるが――書いている。
 ③は題名の通りの本。④は題名だけでわかる人はとても少ないはず。出版社による紹介では「アメリカの六歳になる重症重複障害の女の子に、両親の希望である医療介入が行われた――1、ホルモン大量投与で最終身長を制限する、2、子宮摘出で生理と生理痛を取り除く、3、初期乳房芽の摘出で乳房の生育を制限する――。(以下略)」
 ⑤は、この手の本はとりわけわがくにでは売れないので、出版助成も受け出版社も努力してくれたが高くなってしまったが、しかしこちらのネット販売では3割引きでも売っているので、買ってください。

 それにしてもどうしたものかと思う。ことのよしあしは別として、一部の愛玩品のようなものを別として、文字というか情報が安くてよいことになっている。拙著――年末に村上潔と『家族性分業論前哨』(生活書院)――の様子を見ていてもそんな感じだ。今年中に電子書籍の書店を始めてもらおうと考えている。






BITCHES BREW

2012-02-05 00:26:35 | 日記

リビングからぼくの小さな部屋にオーディオセットを移動して、”BITCHES BREW”を小音量で聴いた。

グールドのバッハ(”TOCCATAS”)も聴いた。

ぼくは本を読みながら音楽を聴かないが、今日はそうしてみた。

時々、本を置いて音楽を聴くのは、よい。

本は『黄金探索者』と『太平洋の防波堤』だった。

そろそろ、ヴィヴァルディのチェロ協奏曲とグールドの”Goldberg”を聴いて寝るとしよう。