Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ハリウッドから来た写真

2012-02-22 15:14:54 | 日記


昨日、仕事に行った日の昼休みには、必ず行くことになった古い喫茶店で聴いた、“懐メロ”歌詞冒頭を掲げる;

“I Want You”: Bob Dylan

  The guilty undertaker sighs,
  The lonesome organ grinder cries,
  The silver saxophones say I should refuse you.
  The cracked bells and washed-out horns
  Blow into my face with scorn,
  But it's not that way,
  I wasn't born to lose you.
  I want you, I want you,
  I want you so bad,
  Honey, I want you.



英語の(ポルトガル語のでもよいが)歌詞なんて、その曲を何百回聴いていても、“ふつうの日本人”には、その‘さわり’が耳についているだけじゃないか?

ぼくは、そうだ。
この曲が入ったディランのベスト盤(“LP”だ!)を聴いていた頃、ぼくは”レコード!“を数枚しか持っていなかった。

だから、“耳にタコができるほど”聴いた。
それは、だれにとっても(たぶん)めずらしいことじゃない。

そういう曲を、“突然聴く”のである。
“とっくに忘れた歌を、突然聴く”という歌詞もあったね。



以上書いたことと以下に書く(引用する)ことは、カンケイない、のか、あるのか?

ディランは、“アメリカ人”である。
ディランの音楽、歌詞、イントネーション、声は、たぶん、“アメリカ=USA”である。

《ハリウッドから来た写真》も、アメリカから来た。

ジャン・ジュネという“フランス人”もしくは“公然たる敵”(誰の?どの国家の?)の発言を聞く。

この発言は、1983年にオーストリアのラジオ放送のために行われた対話である。

この発言の翻訳は、『シャティーラの四時間』(インスクリプト2010)に“ジャン・ジュネとの対話”として収録されている。

以下に引用する部分は(ぼくの“引用”がいつもそうであるように)、なにか全体の要約(肝心な部分、キモ)というわけでは、ない。

たとえば、ジャン・ジュネのような人物の晩年の発言なら、“全部”聴くべきである(しかもジュネは“話し言葉では満足に表現できない”と同席したライラ・シャヒードに言ったそうだ)
ちなみに、このライラ・シャヒードというひとは、クラプトンが“ライラ!”と歌ったひとではないか?;



★ R・W(インタビュアー)
私が強い印象を受けるのは、われわれがたとえばヨーロッパで、パレスチナ人やレバノンにおけるパレスチナ人とアラブ人の、あるいはパレスチナ人とイスラエル人の戦闘のニュースを聞いて感じる、非現実的とでも言えるような側面です。――戦闘の犠牲者のことを耳にするのは、ほとんど習慣と化してしまいました。そして、たとえばサブラとシャティーラの虐殺といった、じつに注目を集める事件があってはじめて、現実の死者がいること、死にかけ、死んでしまった、殺された人びとが問題であることが納得されるのです。たんなる傍観者であるわれわれが持ってしまうこうした非現実的な見方についてどう思われますか?

★ ジュネ
そうだね、私がパレスチナ人のことを取り上げていろいろ言っているのは、なにもあなたがたの非現実感のためではない。むしろ私にしてみれば、すべてを非現実に変えてしまうあなたがたのことを強調しておきたい。あなたがたがそうするのは、そのほうが受け入れやすくなるからだ。現実のキャンプに本物の手紙を運ぶ女よりも、非現実的な死者、非現実的な虐殺の方が、結局は受け入れやすいものだ。虐殺を受け入れ、それを非現実的な虐殺に変えてしまうのは、とりわけあなたのような人ではないかね。きのうあなたはライラ・シャヒードのもたらした虐殺された人びとの写真を見たわけだが、あなたはその時はじめて本物の、スタジオで撮られたのではないドキュメントを見たということも、あながちありえないことではない。というのも、あなたがたの新聞、挿絵やジャーナリストの描写によって伝えられているあらゆる資料が、あたかもスタジオで撮影されたごとくに見られているからだ。きのうあなたが見た写真はハリウッドから来たものではない。
(以上引用)



ここで、ぼくが上記を、“きょう”引用しているのは、“パレスチナ問題”だけが問題であるからではない。

“今日のテレビ・新聞など”が、《ハリウッドから来た写真》ではないか?という疑問を呈している。

もちろんこれは、政治-社会情勢“のみ”の問題でもない。

《ハリウッド》という名詞が掲げられるなら、それは当然、“映画”の問題であり、《写真》という名詞が掲げられるなら、それは、あなたが時たま撮ることもあるだろう“写真”の問題である。

あるいは、このぼくらの日常を満たし、いつも鳴っている(聴こえている)音楽の、聴き取りの問題である。




<蛇足>

このブログを書き終わって、気づいた(笑)
ディランは”ユダヤ人”である。

上記ブログについて、誤解の余地はないと思うが、ぼくはディランが(現在でも)好きである。

さらに、しつこく言えば、ぼくがジュネが好きなのは、彼が”フランス人”だからでは、まったくない。

さらに、ぼくがこのブログで”ある種の日本人”を罵倒することがあるとすれば、それは彼らが”日本人”であるからではない(そうかな?笑)