Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

群れと結晶

2012-02-20 01:27:19 | 日記


★ 「一杯の砂糖水をこしらえようとする場合、とにもかくにも砂糖が溶けるのを待たねばならない」。ベルクソンが『創造的進化』の冒頭に書いたこの一節、この砂糖が溶ける時間とは何か、ずっと問いが私の頭にぶら下がったままで、その砂糖の問いは溶けないままだ。

★ 砂糖の溶ける時間は、「私の待たねばならない時間」であり、これを空間の中に一挙に繰り広げることはできない。ところが知性の仕事とは、多くの場合、そのような時間を鮮やかに「ぱっと展開して」見せることである。しかし砂糖の溶ける時間とともにあるような思考は、一体どんなものだろうか。

★ この時間は意識と主観にかかわるにちがいないが、決して意識にも主観にも還元しうるものではない。そもそも意識は無意識に包まれ、その無意識は身体にくるまれ、さらにその身体は世界の時間と変化に包囲されている。それはまたその身体が、知覚しえない、形のない、たえず変化する身体(器官なき身体)として広がっているということを意味する。時間を生き、時間を紡ぎだすのは、まさにそのような身体なのだ。

★ この身体は決して、輪郭をもって閉じられた一個の身体ではなく、その中には数多の群れがある。この身体はまた、その外の無数の身体とともにある。この身体は、内と外にあるそのような果てしない群れの中にある。

★ そういう群れの中で、結晶が発生するようにして、個々のもの、精神や身体が形作られるけれど、結晶とはいつもそれ自体が内部であり外部であり、内部と外部の結節点として結晶するのだ。そこで結晶とは内部と外部の識別不可能性のことでもある。ひとつひとつの身体が、時間の結晶でもある。

★ そのような結晶にふさわしい結晶の生の倫理(エティカ)というものがあるにちがいない。そこから見えてくる喜びと悲しみ、恐れと希望、豊かさと貧しさ、破壊的なものと創造的なもの、生きているものと死んでいるもの、闇と光、響きと虹・・・・・・。

<宇野邦一『ドゥルーズ』(河出ブックス2012)>