Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

瓦礫の中の言葉;夢の中の言葉;突破する言葉

2012-02-08 15:24:40 | 日記


昨日仕事の帰りに辺見庸『瓦礫の中から言葉を』を買って、昨夜と今日起きてからずっと読み続け、いま読了した。

“3.11以後”、ぼくが感じ続けていたこの状況へ発せられる言葉への違和感(そして自分が読み得る言葉への違和、自分の言葉への違和)が、この本において正確に記述された。

この本の言葉によって、辺見庸は、この現在に言葉を与えた。

そしてそのことは、まさしく、“過去の人々(もう死んでいる人々)”の言葉を参照することによって記述することができた。

石川淳、原民喜、石原吉郎、折口信夫、川端康成、串田孫一、堀田善衛・・・・・・
ベンヤミン、ブレヒトの言葉もある。
<引用>がある。
原爆投下に関する、昭和天皇の言葉=引用(1975年10月)もある。
そして最後に宮沢賢治の(最後の)詩が引用される。


そして、辺見庸自身の“現在の言葉”がある。
“橋―あとがきの代りに”にしるされた、子どものわたしが見る橋上の老人の幻影である。


この本から引用すべき文、引用したい文は、たくさんあった。
だからこそ、それらすべてを、ここに、引用することはできない。

この本を読んでほしい。


サンプルとして、一ヶ所を引用する;

★ 折口信夫は関東大震災を見て「あゝ愉快と 言つてのけようか。/一挙になくなつちまつた。」と詩にうたい、川端康成は短編の登場人物に、関東大震災は人間が絶対化してきたことを一気に相対化したと、こともなげに言わせました。東京大空襲の記憶にかさね串田孫一さんが幻視した人間滅亡後の眺めというのは、「とてもきれいな風景」で「さばさばしている」というものでした。堀田善衛は堀田善衛で、「階級制度もまた焼き落ちて平べったくなる」という、「さわやかな期待」をもちました。

★ これらの表現は、それぞれに思いの色合いがことなるものの、完膚なきまでに壊された人とその社会のその先に、いったいなにが誕生してくるのか見てみたいものだという、各人にあいつうじる切望、内面のつよさや不思議な明るさ、もっと言えば、“ふとどきで不謹慎な明るさ”をわたしは感じます。ふとどきで不謹慎な言葉というのは、そうでない襟を正した言葉よりも、ときとして逆説的な明るさを醸し、人に救いを感じさせたりするものです。

★ 他方、このたびの東日本大震災では、未曾有の災厄とか「言葉もありません」というたぐいの常套句が語られるだけで、出来事とその未来にかんする自由闊達な言語化はあまりこころみられず、瓦礫のそのはるかむこうに新しい人と新しい社会を見たいという焼けるような渇望も感じられません。「復旧、復興」の連呼に新しい理念のひびきはありません。

★ 全的破壊のそのあとに、かつては(一部ではあったでしょうが)生じたという“さばさば”感もこのたびは皆無のように思われます。ふとどきでも不謹慎でもない、大震災前と同じ空洞の言葉、手垢のついた新聞用語、テレビ用語、CM用語、ネット用語、携帯用語が、傷ついた人びとの感官をいっそう目づまりさせて、絶望へと追いたてています。

★ すべてを震災ビジネスが吸収しつつあります。言葉はいま、言葉として人の胸底にとどいてはいません。言葉はいま、自動的記号として絶えずそらぞらしく発声され、人を抑圧しているようです。

<辺見庸『瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ(NHK出版新書2012)>






* 余談

昨夜、この読書中に、たまたまテレビの“週刊鉄学”とかいう番組にゲスト出演した、内田樹を見た(内田樹というひとを見たことがなかったので、どんなひとだろう?と思って)

この番組で武田鉄矢というひとは、“内田先生”の本を積み上げて、褒めまくった(笑)
目の前で絶賛されて“内田先生”は、ニヤニヤ。

その内田先生が言ったのではないが、武田鉄矢は、この震災で一番感動したのは天皇陛下の言動だったと言ったのだ。
内田先生は、それにたいして、なんら言葉を発しなかった(発せなかった)。

ぼくには、内田樹が、その発言に、賛成なのか反対なのか、“わからない”のである。

ぼくは、どっかの婆さん爺さんが、被災地への天皇陛下言動に“感動”しても、かまわない。
しかし、テレビにおいて、そう発言するなら、そのことに責任を感ずるべきだ。
その根拠を、言葉として語らなければ無責任だ。
すくなくとも“鉄学!”を標榜するならば。

“アレには、みんな、感動したハズでしょう(日本国民ならば)”―というような発言=生き様こそ、まったくの空語=空虚なのだ。

もちろん“武田鉄矢”とか“内田樹”などというタレントが問題では、ぜんぜんない。

テレビにおいて、言葉が死んでいることが、問題だ。

このような番組を見て、ぼくは、テレビの四角い画面から、まったくの空虚があふれ出してくるのを見ている。

しかし、ぼくは辺見庸のこの一冊の小さな薄く安い本を手にし、そこでの言葉の手触りに復帰し、自分を取り戻す、<世界>に復帰するのだ。

それもまた、抵抗である。

<あなた>にも可能な抵抗なのだ。