Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ぼろぼろ

2011-07-16 12:18:19 | 日記


アサヒコムから;

<大飯原発1号機停止へ 冷却装置トラブル 16日夜にも>

 関西電力は16日、大飯(おおい)原子力発電所1号機(117万5千キロワット、福井県おおい町)を手動停止する、と発表した。緊急時に原子炉の炉心を冷やすために使うタンクの圧力が下がるトラブルがあり、原子炉を止めて原因を調べるという。関西の夏の電力需給はさらに厳しくなる見込み。
 関電によると、トラブルが起きたのは、事故時などに冷却水を注入するために複数設置されている「蓄圧タンク」の一つ。15日午後10時46分に異常を知らせる警報が鳴り、圧力を確認したところ保安規定上の制限値を下回っていた。圧力が低下すると緊急時に冷却水を注入できなくなる恐れがあるという。
 安全確保のため、16日午後1時ごろから出力を低下させる作業に入り、午後9時ごろには原子炉を停止する。トラブルによる環境への影響はないとしている。


<文科相、もんじゅ中止「言ってない」 午前会見から一転>

 高木義明文部科学相が、高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)の開発中止を含めて検討する考えを示した問題で、高木氏は15日夕、記者会見を開き、「びっくりしている。中止とは一言も言っていない」と火消しに努めた。
 高木氏は同日午前の会見で、もんじゅについて、東京電力福島第一原発の事故を踏まえ「エネルギー政策の見直しの中で方向性を出すことになる」と述べた。記者団に「中止を含めた方向性か」と問われ、「そりゃそうですよ」と認めた。
 高木氏は2回目の会見で「もんじゅは、これからのエネルギー政策の全体的な中で議論されること。それについて予断を持つものではない」などと繰り返し、中止については肯定も否定もしなかった。

(以上いまのアサヒコム・トップ10から)



すなわち、ひともマシーンも(システムも)ぼろぼろである。

けれども、


《トラブルによる環境への影響》は、あ・り・ま・せ・ん。


ぼくは断固として、別の場所=別の時間(すなわち別の<環境>、すなわち<読書>)へワープする。








ヌーヴェル・ヴァーグ;新しい波

2011-07-16 10:18:23 | 日記


★ godard_bot Jean-Luc Godard
ヌーヴェル・ヴァーグの誠実さは、自分がよく知らないことについて下手に語るよりはむしろ、自分が知っていることについて上手に語ろうとするところにあった。それにまた、自分が知っていることのすべてを混ぜあわせようとするところにあった。―ゴダール

★ godard_bot Jean-Luc Godard
ぼくにとっては映画を撮っているときと撮っていないときという、互いに異なった二つの人生があるわけじゃない。映画を撮るというのは人生の一部をなすことであるべきだし、ごく自然でごくふつうのことであるべきなんだ。―ゴダール
(引用)


このゴダール(初期だと思う)の“語録”を、ただ引用してるだけのツィッターが、最近のぼくにはいちばん面白い。

というか、その日起きて、いろんなニュースやブログやツィートを読んで、気分が悪くなったとき、最後にコレを読むと、やっと“正常な”気分になれる。

しかもこの“語録”ツィートは、ただリピートしている(循環している)だけなのだ。
何度も同じ言葉を読むことになる。

ただし、その“同じ言葉”を、“その日の(おびただしい)別の言葉”との対比によって読むことができる。

今日は、《宮台真司×小林武史「世界の手触りを失うな」》という細かい字で書かれて長い、“対談”もしくは、宮台へのロング・インタビュー記事の“後に”読んだのだ。

ここで、宮台真司が“まちがったことを言っている”とは(あまり)思わない。
またぞろ“ルーマン”とか“アガンベン”とかの固有名詞も健在である。

むかしのぼくだったら、その記事の“さわり”を引用したり、批判したりしただろう。

しかし現在のぼくは(震災-原発危機以後のぼくは)、もはや、そういう自分に面白くないことはやりたくない。

その発言が、いかに正しくても、自分に“つまらない”ことについて、コメントする必要を感じない。

現在、ぼくと年齢が近い“作家たち”=池澤夏樹、高橋源一郎、矢作俊彦等によって、“菅直人支持”の言説が現われている。<注>

ぼくは、一貫して“管直人不支持”である。
ぼくは“政権交代”のときから“民主党”を支持していない(過去のブログに書いた)

ぼくは現在のあらゆる政党、あらゆる“政治家”を支持しない。

だから、“管を支持するかしないか”などという話は、はなから、退屈である。

ぼくと“同世代の作家”たちも、見事に“認知症”に突入したものだと、思うだけだ。


そして宮台真司に話をもどせば、たしかに、《世界の手触りを失わない》こと、世界の手触りを失わないこと“のみ”が、ぼくには、肝要な、肝心なことである。

しかしもし《世界の手触りを失わない》言葉があるならば、それは宮台真司のようなボンボン東大出身教授(学者!)の言葉ではない。

ぼくは、“ヌーヴェル・ヴァーグ”や“ゴダール”を絶対化したり、信仰するものではない(そういうひともたくさんいる)

むしろ、いま、この言葉の氾濫(垂れ流し)のなかで、そのなかで、ゴダールの言葉が輝くことに驚く。


もちろん、それらの言葉は、ゴダールのみによって発せられなかった。

ぼくたちには、言葉を理解する無限の時間があるわけではない。

言葉をさがす努力もまた、この世界への《手触り》である。






<注>

”政治について”とぼけたことを言うひとは、”映画”についてもなにもわからない。

昨夜のBSで、「イージー・ライダー」という映画について、高橋源一郎がしゃべっているのを(たまたま)見た。

”あの時代”(「イージー・ライダー」が公開されたとき)、ぼくは”ロック”に夢中だった。

しかし「イージー・ライダー」という映画を、まったく評価していない(ようするに嫌いだった)

あの映画は、ロックを裏切っている、と感じた。

だから、ベトナム戦争反対で、ロックが好きだが、「イージー・ライダー」が嫌いな、ぼくのような人間もいた(いる)ことに、高橋源一郎の”想像力”は、思い及ばないほど、貧困なのだ。