Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

運動

2011-07-27 10:49:19 | 日記


★ godard_bot Jean-Luc Godard
労働者がフォードの車体のボルトを締めようとするときであれ、自分が愛している女の肩を愛撫しようとするときであれ、あるいはまた、小切手を手にとろうとするときであれ、それらのアイディアはどれもみな、運動に属しているのです。―ゴダール

★ godard_bot Jean-Luc Godard
私はいつも、人々がそれぞれドキュメンタリーとフィクションと呼んでいるものを、同じひとつの運動の二つの側面と考えようとしてきました。それにまた、真の運動というのは、この二つのものが結びつけられることによってつくり出されると考えてきました。―ゴダール
(引用)



上記引用二番目の、《ドキュメンタリーとフィクション》を、“リアルとヴァーチャル”に変換する(読み替える)ことができる。

現在の言論が徹底的に無意味なのは、無意識に・無思考に・無感覚に“リアルとヴァーチャル”を仕分けてしまってしか考えられない(文章が書けない・発言できない)“言論人”ばかりになってしまったからだ、と思える。

すなわち“リアルな人”(自分をリアルと考える人)は、“リアル”なことしか言わず(笑)、“ヴァーチャルな人”(ヴァーチャルな自分が好きな人)は、“ヴァーチャル”なことしか言わない(言えない)


要するに、一方に“古代の遺物”のような感性=論理の多数が存在し、もう一方に“オタク=ポストモダン”的な自分の存在自体がなかば架空の多数が存在する。

しかもこれら“多数”の人々は、瞬時に、“入れ替わりうる”人々なのだ。

だから、“多様な言説空間”なんか、どこにもない。

なにが起ころうが、“同じ人が同じことを言う”だけである。


だから、この状況への唯一の対抗策は、“現在の時空を離れる”ことである。

“現在の時空を離れた言説”を参照すべきだ。

それが、現在(この時代、場所)における《運動》である。

なんども言うが、“そういう言説”は、ゴダール語録のみではない。

離脱するために、探せ。







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