Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ゼロ年代

2011-07-10 08:19:54 | 日記


東浩紀3.0のツイッターを引用する。

まず、“東浩紀3.0”とはどういうひとなのかの自己紹介;
じぶんがなにものかよくわかりません。なお現代思想時代の東浩紀1.0およびオタク時代の東浩紀2.0は死にました。メールは hazuma + contectures.jp まで。あるいはカルチャーナイーブ芸人。


次に、“ゼロ年代の批評”について(下から上へ読んでね;笑);

☆ ぼくの基本的な出発点は、アーレントやハーバーマスやデリダをいくら読んでもネットワークや郊外型社会は否定せざるをえず、それだけだと21世紀のいまただの現状批判にしかならず何の力ももてないから(実際日本の人文系思想系の学者はみなそう)、別の思想的選択肢はないかという問題意識にある。
posted at 11:15:01

☆ 書き忘れたけど、ゼロ年代の批評の核心は前述の(2)、つまり「ネットワークと郊外型社会、消費文化の基本的な肯定」にあるのだから、別に日本のコンテンツや状況に限定される必要ないんだよね。3.11以降の状況への失望もあって、思想地図βはこれから外国の論客も探してみようと思っています。
posted at 11:11:27

☆ 消費社会に政治的社会的連帯の可能性を見出すってことと、「おれらこのまま萌え豚でブヒブヒ言ってればいいんだ」はぜんぜん違うと思うのだが。
posted at 11:08:21

☆ 「おれたちこのままでいいんだ!」とかは理論的肯定じゃなくて単なる承認ですよ。RT @yohyouyohyou: (あずまんの肯定がどのレベルなのかちょっとわかりにくいんよね、、)
posted at 11:07:08

☆ ぼくは感じてますけどね〜。RT @ask_fashion: ゼロ年代の批評の必要性をヒリヒリと感じないと難しそうですね。RT @hazuma: それにしても、現状ぼくこそがだれよりも真剣にゼロ年代の批評の定義や生き残りを考えている気がして、この状況は情けなくてならない。ゼロ年
posted at 11:04:49

☆ それにしても、現状ぼくこそがだれよりも真剣にゼロ年代の批評の定義や生き残りを考えている気がして、この状況は情けなくてならない。ゼロ年代の批評の精神を本気で受け継ぐ新世代の論客求む。具体的にはコンテク友の会会報へ投稿してください。投稿、いまのところ弱いので逆にチャンスです。
posted at 10:57:39

☆ この(2)の「肯定」が大きなポイントで、これによって「ゼロ年代の批評」はロスジェネや佐々木中氏と政治的に異なった立場に立つことになる。そしてこの定義で課題も見えてくる。ゼロ年代の批評にとって3.11以降最大の問題は、その「肯定」をこれからどう貫けるか、なのだ。
posted at 10:49:52

☆ ゼロ年代の批評とは……「(1)2000年代半ばに勃興してきた、(2)ネットワークと郊外型社会、消費文化の基本的な肯定を前提とした、(3)1970-80年代生まれの論者たちが担い手となった一群の思想的・批評的言説」といった感じで定義してみる。
posted at 10:47:10

☆ 来週月曜日に関西のあるクローズドな場でゼロ年代の批評について語らなければならないので定義を考えた。
posted at 10:46:33

(以上引用)


上記によればアズマくんの主張のポイント以下のとおり;

① ゼロ年代の批評の核心は、「ネットワークと郊外型社会、消費文化の基本的な肯定」にある
② アーレントやハーバーマスやデリダをいくら読んでもネットワークや郊外型社会は否定せざるをえず、それだけだと21世紀のいまただの現状批判にしかならず何の力ももてないから(実際日本の人文系思想系の学者はみなそう)、別の思想的選択肢はないかという問題意識にある

《消費社会に政治的社会的連帯の可能性を見出す》とも言ってます(笑)



ようするに《肯定》したいわけだ(笑)、ぼくと同じだ(爆)

ただこのキーワード《消費社会》  ???

ぼくは、《1970-80年代生まれの論者》ではないので、東浩紀3.0にまったく期待されておらず、《ゼロ年代》とは無縁です(ツイッターもやってないし!)

ようするに、《ゼロ年代》というのは、《消費》が好きなのね。

ぼくも、むかしは、好きだった(爆)

まじめに言って、ぼくに気になるのは、もちろん②です。

東浩紀というひとは、“デリダ”についての本で、現在の“地位”を築いた。

そのひとが、《アーレントやハーバーマスやデリダをいくら読んでも……21世紀のいまただの現状批判にしかならず何の力ももてないから(実際日本の人文系思想系の学者はみなそう)》とおっしゃるからには、もっと“自己批評”が必要じゃないんでしょうか?


ぼくは、東浩紀3.0がここで言ってることに“反対”なんじゃない。

ぼくも先日、このブログで加藤周一『日本文学史序説』を引用して“外来思想”について述べたよ。

まさに《実際日本の人文系思想系の学者はみなそう》というのは、べつに<いま>はじまったことじゃないのね。


《別の思想的選択肢はないかという問題意識》 ????????


ぼくはよくしらないが、東浩紀3.0は、結局、小説が書きたいだけではないだろうか。

しかし彼の“小説”『クォンタム・ファミリーズ』を読んだが、ぼくにはつまらないSFとしてしか読めなかった。

ぼくは何度も言っているよーに、SFから大人の本を読み始めた(アシモフ、クラーク、ハインライン、ブラッドベリ、安部公房、バラード……ハハハ)

そして“現代小説”は<私小説>であるべきだ“という確信をいだいている――大江健三郎、開高健、中上健次、日野啓三、ル・クレジオ、デュラス……である。<注>


批評家が小説を書くのはけっこうだが、そのためには、もっと<私>を探究する必要があると思うよ。




今日は日曜なのに、昼から仕事だ、汗。







<注>

やっぱ、”『ダンス・ダンス・ダンス』までの”村上春樹も入れましょう(笑)

矢作俊彦のいくつかの小説も。

青山真治も、もちろん平出隆『猫の客』(保坂和志の”猫”や、文豪の”猫”とはちがう)