Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

解けない謎

2011-07-18 21:13:39 | 日記


★ 70年代、80年代、90年代と、私はゆっくりベンヤミンを読み継いでいく。そのなかに記憶にかんするものがあった。「1900年頃のベルリンの幼年時代」である。おそらく私だけではあるまいが、この本を読んでいると、まるで自分の幼年時代を読むような気持になる。どうしてか?生活環境が似ていたとか、それが子供としての大都市の経験であったとかいうのではなく、だれの内面にも埋もれている記憶があり、ベンヤミンがいうように、この記憶は想起する瞬間としての「いま」にかたちをとることに気づくからであろう。

★ 「1900年頃のベルリンの幼年時代」は一種の文学作品である。文学作品ならではのさまざまな読み方が可能である。この書物は記憶している事柄よりも、想起とはなにかということについて教えるところが大きい。私は自分自身の少年時代の記憶との向き合い方をあらためて考えるようにもなったが、ここではそれを述べない。いまは「1900年頃のベルリンの幼年時代」をどのように読んでいったかを語りたい。そしてここでは論じるという態度よりも、その繊細な言葉を読み取っていった経験を綴るほうが相応しい。溺れるのではなく、どのように深い感情にとらえられていったかを記述できれば幸いである。

1932年に外国 [スペインのイビサ島] にいたとき、私には、自分が生まれた都市に、まもなくある程度長期にわたって、ひょっとすると永続的に別れを告げねばならないかもしれない、ということが明らかになりはじめた。(ベンヤミン「1900年頃のベルリンの幼年時代」序)

★ 大人が、主として生活する人間の立場で都市や住居を経験すのとちがって、「子供」は都市や部屋やさまざまな道具を、考古学者か地質学者のような好奇心だけで探検していればよかったのである。彼は発掘し発見し、その細部を眺めていることができた。そこにあるすべての徴候を世界から送られてくる暗号として受け取っていたのだ。あるいは太古の人間のように、場所や部屋や家具に同化したというのが正確かもしれない。実際彼は、物に似ようとしていたと書いている。

★ われわれは子供のころに、その後も長く生き続ける象徴を貯え込んでいるのだ。見たものばかりではない。あるとき父親が部屋に入ってきて従兄弟の死を告げ、「子供」は父親の態度に不思議なものを感じる。こうした解けない謎もまた象徴として残っていくのだ。この象徴の集合がいわば神話をなすのである。しかし同時に彼が「いま」経験しつつあるのは歴史であり、そこにこの神話がどう溶け込んでいくかが、そこでの課題となるのだ。

<多木浩二『雑学者の夢』(岩波書店2004)>








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