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だれも非難したくない、こんな日本の現状になんの文句も言いたくない、と思う。
けれども、この日々ふりそそぐ言葉の貧しさと、映像のボケ具合と、聴こえてくる音楽の惰性は、どうしようもない。<注>
それだって、“客観的にそう”なんじゃなくて、“ボク”の夏バテとか、年齢による感受性の衰え、新しいものを受け入れられなくなった頑固さでしかないのではないかとも思う。
それにしても、“新しいもの”を読むのが、ダメである。
ぼくは、けっこう、“新しいもの”を追いかけてしまうタイプであった。
なにが“新しい”かには、モンダイがあるにしても。
先日は、“日野啓三”を思い出した。
今日は、辺見庸と藤原新也を、“思い出した”。
死んだ人を思い出すのと、生きている人を思い出すのは、ちがっている。
ある意味では、まだ生きている人を思い出すのは、現役で活動している人(この場合は辺見庸と藤原新也)に失礼にあたる。
そういえば昨年?ぼくは“大江健三郎”を思い出した。
さて今日の話題は、藤原新也である。
ここに1981年10月2日という日付をもった写真がある。
1981年というのは、もはやずいぶん昔である。
ぼくは、辺見庸や藤原新也の文章を、年代順にたどれば、この時代のリアルに触れるような気がする。
その写真について書かれた文章(藤原新也の)を引用する;
★ 私は、その「事件の家」を撮る場合、その家を、惨劇の起こったイメージに沿って、たとえば、鬱々とした雨雲の低くたれ込めた日であるとか、嵐の吹きすさぶ凄惨なイメージの日に撮ることは、その家の現実を表わさないと考えていた。
★ 私がその「事件の家」を撮る場合、方法として選んだのは、(略)あのアート紙にカラーで印刷された「不動産建築広告」の写真の技法であった。
その一点の曇りもない晴れ渡った青空の下に、午後2時の直射日光に照らし出された、真新しい家々の写真である。
★ ただ、私はその無機的な写真に、ほんのちょっぴりだけ、その見え方に眼差しを与える方法を盛り込んだ。
折り込み不動産屋広告の写真の片隅に大書しているコピー、たとえば、
家族のみんなが、シティ感覚になった
といったわけのわからぬ美辞麗句を、
血飛沫を あつめて早し 最上川
と変えたのだった。
<藤原新也『東京漂流』(朝日文庫1995)>
上記引用文を読んで、藤原新也を誤解するひとがいるかもしれないので、公平のために(笑)、以下の部分も引用しよう;
★ 数枚のシャッターを押して、その場を立ち去ろうとした時、脚に触れた可憐なものがある。
……ほととぎすの花であった。
その白地に土紫色の斑点のあるいくつかの小さな花は庭の隅に隠れるようにしてひっそりと息づいていた。
(略)
ふと、そこに人の魂の残り火を見たような気がしたのだ。家の庭というものが主婦の心模様であるとするなら、その小指の先ほどの小紫は千恵子夫人の心の中の何か?……
辺見庸と藤原新也は、いずれも1944年生まれ。
辺見は東北の人、藤原は九州の人であるが。
すなわち、ぼくより数歩先を行くひとである。
この二人だって、とうぜん異なっている。
が、ある種の“過剰”を抱えており、たぶん、“ポストモダンな人びと”には、それがうざったい。
<注>
”ニュース”とそれに対する、わけ知りの”論評”(あらゆる論評)など、ウンザリだ!
* 画像は藤原新也の写真であるが、上記の日付のある写真ではない。
いずれにせよ、著作権が存在すると思うが、無断掲載、許せ。
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