★ 日が傾きはじめた。青山通りの隅々が金色に光った。女たちの顔のあちこちで、ラメがそれを反射した。青白く塗った瞼は、夜光時計の文字盤に似ていた。
★ 試合前の練習が終わるところだった。グラウンドでは、着ぐるみ人形が若い娘と一緒に踊っていた。宇宙パイロットみたいな出で立ちの若者が、通路を練り歩き、声を上げた。彼らは銀色の生ビールの樽を背負っていた。やかましい音楽が、スタンドを満たした。野球選手がグラウンドにいなければ、まるでサーカスのようだった。
★ まるでアメリカみたいだと彼は思った。振り返り、絵画館の方向と、店の方向を見比べた。それから苦笑した。いや、アメリカではない。オードリー・ヘップバーンの映画に登場するパリだ。ヌーベルヴァーグのパリでないだけだ。
★ それが映画の一場面を思わせた。あの年に観たSF映画だった。木星探査船の巨大な電子頭脳が暴走する。狂った電子頭脳が、自分自身の体内である宇宙船から人間を排除しはじめる。いくつもの危機を乗り越え、船長はその脳に潜り込んで人造の思念と格闘する。思念は形を持っている。赤く輝く弁当箱ほどの記憶装置。それが隙間なく無数に並んでいる。手で触り、引き抜き、持ち運ぶことができる思念。赤い弁当箱をいくつか移動させ、船長は探査船を乗っ取った電子頭脳をついに停止させる。仏壇の裏に、そんな空間を想像していた。つまらない空想だった。これはただの骨、ただの壺、ただの機械、チャップリンが格闘した油臭い鋳鉄の歯車と何も変わらない。
★ あのころの流行と言えばむしろ逆、筋や義理のために己を殺すヤクザの物語だった。着流しに雪駄、手には長匕首を握り死地に赴く。雪の中、桜吹雪の中、刺青を血に染め展望もなく暴れ回る。死に切れなかった者は、従容として司直の縄を受ける。彼はそんな映画が嫌いだった。任侠道の『道』の字がことさら気に入らなかった。
★ 立て看板がまったくないことが、印象を変えていた。赤旗もなく、ビラも散っていなかった。人気もなかった。髪の毛を赤く染めた学生はいたが、ヘルメットをかぶっている者はいなかった。そこらに座り込んだ学生は本を読む代わり、誰もが携帯電話をかけていた。拝むように持ち、両手でプッシュボタンを押している者もいた。
★ 街灯は明るく、自動販売機の光が華やかだった。どこまで行っても、光が途絶えることはなかった。店が途切れ、道は線路から離れた。住宅地が始まった。夕餉の匂いがした。どの家にも生け垣はなく、庭もなく、窓明かりの中に人の気配もなかった。聞こえてくるのは、遠いエンジンの音だけだった。
★ 三次屋の前を通った。ガラスケースの菓子はどれも売れ残りのように見えた。三次屋とコグマ屋文具と近藤書店、その三つが、物心ついたときから彼と妹の聖域だった。そこで何をせがまれたろうか。冬のお好み焼き。真夏の掻き氷、他になにがあったろう。
角地のちょうど西側に、住居の玄関があった。その真上が妹の勉強部屋だった。夜遅く、息をひそめて抜け出そうとすると、二階からいきなり顔を覗かせ、彼を困らせた。
彼はそこに立ち、目を上げた。ビニールシートがのっぺりと広がるばかりだった。
★ 百年前には何もなかった。百年後には何ひとつなくなっていても不思議ではない。彼は店など継がないと子供の頃から宣言していた。父親も、継がなくてかまわないと言った。こんな商売は、俺でおしまいにしたっていいんだ。決して寂しそうではなかった。むしろ、喜んでいるように見えた。一次志望校に合格した夜、父親と店の酒を飲んだ。二人で酌み交わすのは初めてのことだった。
★ 俺は今、どんな目つきをしているのだろう。彼の膝が、ガラスの傷を強く押した。接着剤があっけなく剥がれた。
足場の鉄パイプを強く握りしめた。その感触が、どうにも心地よかった。彼は思い切って膝に力を込めた。大した音もなく傷はひろがり、ガラスが割れて内側に落ちた。
手を伸ばし、額を取り出した。妹の写真は今、彼の手の中にあった。
<矢作俊彦『ららら科學の子』16-21(文春文庫2006)>
この絵はだれの絵ですか?
最後に美術館に足を運んでから……数年以上経ってる……学生時代はよく見に行っていたものですが、最近さっぱりです。シャガールは当時好きでした。
ジャクスン・ポロックだと思います(笑)
ぼくも絵にはあまりくわしくありません。
最近、美術展や美術館にも行っていません。
グーグルの画像検索などを貼り付けているだけです。
ただ好きな画家ではなく、好きな絵、好きな色とかがあります。
ところで、やはり落ち着かず、”原発情報”のテレビ、ネットばかり見て、本が読めず、引用ブログも書けません。
なにより書きたくないのは、まさに原発や震災についての”意見”です。
この震災をきっかけに、”日本が変わる”などと脳天気なことを言っているひとが多いようですが、現在のところ、むしろ、なにひとつ変わらないことに、ぼくは呆然としている。
ようするに、あいかわらず同じ人が同じことを言っている。
こういう人々(いま田原総一郎の朝ナマ録画を見ていたが)黙らせるのは、まさにこれから明らかになる<事実>だと思う。
しかし、口惜しいのは、”ざまーみろ”と言えるときには、ぼく自身もなにも言えない状況にあろうことです。
第一、”節電なら”、くだらないテレビ番組をやめるべきです。
ジャクスン・ポロックですね。ありがとうございました。
さてさて、夕方、八景島(横浜市。水族館、遊園地、レストラン街がある施設)を散歩してまいりました。
空いてましたよー。節電で遊園地・ゲームセンターがお休みで静かでした。
波と風の音、鳥の声と時々飛行機の音、そのくらいです。
水族館はさすがに節電とはいかないので通常通りです。
クリオネ、クラゲ、シロクマ、ペンギン、カエル(何故?)、アザラシ、セイウチ、ジンベイザメ、イルカ、みんな元気にしていました。
原発情報をフォローしてるなんて、大変ですね。
田原総一郎さんのお仕事は「結論を出さないように調節すること」じゃないですか?
正確な情報など絶対に報道されないと分かっているのに(笑)
原発の構造からして精確に公表するはずないし(笑)
各地の信頼できる放射線観測情報を拾って解析していくと状況が分かると思います。
けど、解析結果をどう使うか決まらないうちはやる気が起こらないです。
疎開したい人はもう移動済みじゃないですか?
残っている人は日常を継続しています。洗濯物を干したり、犬を散歩させたり。
単に無意識に「見えざる手(なるようになるよね)」を信じているのかもしれませんが。
ところで、warmgunさん、写真はお好きなのですか?
22日と14日の写真が好きです。
それでもって、これらの写真にはプロっぽさがあんまり感じられません。
もしかして、ご自身で撮影されているのですか?
あのー
このブログの写真は、”基本的に”ぼくが撮ったものなんです(笑)
ところが、だんだん写真を撮らなくなったんですね。
それでグーグル画像検索からかっぱらうようになったんです。
22日と14日の写真は、もちろんぼくのシロート写真です。
横浜の近くにお住まいですか。
ぼくはなんとなく横浜とか神戸にあこがれて(住みたく)思っていました。
だいぶ前に横浜に、”撮影に”行ったこともありました。
>あのー
あ、失礼しました。褒めるのを忘れていました。
14日の黒猫。
○ 猫が撮影者を警戒していない。
○ 猫のポーズが完璧。横顔が綺麗。
○ 黒の被毛の濃淡、背景の白い石材の影の濃淡がどちらもよく表現されている。
× 主題を意識した構図になっていない。
× フォーカスがどこにも合っていない(ひどい? Autofocusのないカメラですか?)。
22日の植物。
○ 構図が素敵。好き好き。
○ 被写体が素敵。淡緑と藤色の実が綺麗。
○ 明るさがちょうどいい。フォーカスの合っている位置がある。
× 前景を画面中央におくとか、基本ありえない(今回は別!)。
これからの季節、深大寺植物園なんか良さそうですね?
新宿御苑でもよく撮影会やってますね。
私は横浜近辺で満足しておきます。今の感じで無駄な移動は避けておこうと思うので。
丁重なご指摘、ありがとうございます(笑)
ああー、ぼくのカメラはもう古いキャノンの“一眼ではない”デジカメで、オートフォーカス、オート露出ですが(笑)、あまり撮る瞬間に何にピントがあっているかを意識しておりません。
最近はそうでもないのですが、撮るときは本能的にパパパパっと、短時間に何カットも撮っちゃいます。
つまり対象を良く見てない(爆)わけです。
それで、しばらく時間がたって(自分の写真を見て)、どのような状況で撮ったか思い出せないものもあります。
ただしご講評の2枚については(さいわい)覚えております。
“猫”は、北イタリアのマッジョーレ湖のなかの島で撮ったもので、モデルと光線が良いのです。
“22日の植物”は妻の父が入っていた老人ホームの庭で撮ったと思うが、対象は“どうでもいい”ようなものだったが、偶然により、“結果”が良く、自分でも好きです。
深大寺植物園は、撮影に行ったのではないが、都合があって行き、薔薇をたくさん撮りました(温室も)。
新宿御苑にも数度行って撮ったことがあります。
行きやすいので井の頭公園周辺では、何度も撮りました。
写真のフォーカスの件で、過去の写真をざっくり見たところ、
植物や砂模様、岩石などの「接写」はどれも素敵、
「風景もの」がほとんどピンぼけ、でしたよ?
これは、眼が見えにくくなったとか言う問題ではないと思います。
カメラの機能を使ってないんだと思います。
『シャッターボタンを半押しにして』いますか?
古めのデジカメと言うことですので、特に顕著なのだと思いますが、
シャッターボタンは2段階に押せますよね?
1段押して1拍おいてください。そこでオート機能が働きます。
機械的な動作を伴いますので、少し時間が必要です。
カメラが「OK」と言ったら全押しにしてください。
フラッシュをOFFにしているのは評価します。マニア的な使い方です。
なのにピンぼけって、なんなんですか。基本以前過ぎです。
フラッシュ強制OFF、オートフォーカス、オート露出で綺麗な風景が撮れると思いますよ。
2009年4月21日の雨の写真、表現したかった内容はすごく分かります。
でも、やっぱりどこにもフォーカスしていない(ひどいこと言ってますよね)。
3メートルくらい先の、雨水で覆われた地面(と言うか水面ですね)にピントを合わせれば良かったと思います。
近景に雨粒が入りますから、完全にカメラ任せにはなりません。
雨粒のない空間で『シャッターボタンを半押しにして』3メートル先にピントを固定し、
そのままカメラの向きを変えて撮りたい構図で全押しすれば、良い画になったはず。
読書家なのに、カメラの取り扱い説明書を読まないとはどういうことでしょう?!
知っていることと、実行していることが別なのかも知れませんが。
なるほど。
つまり、シャッターボタンを押すのが速すぎるのだと思います。
今後アドバイス参考にしますが、これはぼくの一種の癖なので、うまくいくかはわかりません。
つまり、あなたのおっしゃるようなことを意識すると、ぼくの写真が撮れなくなることもありえます。
たしかにぼくは”取説”をほとんど読みません。
お早いお返事ありがとうございます。
>あなたのおっしゃるようなことを意識すると、ぼくの写真が撮れなくなることもありえます。
優先順位として「ぼくの写真が撮れること」が高いと思うので、
先の私のコメントはお気になさらないでください。
いえいえ(笑)
実はぼくも、”オレの写真は、どーもぼんやりしてるな”と思ってたんです(爆)
たぶん、カメラによってピントが合う時間がちがうのではないでしょうか。
ぼくは最近買い換えていないが(おカネがなくて)、ある時期いろいろなカメラ(安物)を使っていて、前のパナソニックの方が、ピントがはやく合った(つまり雑に押しても合った)よーな気もする。
それから、そもそもぼくが写真を撮り始めたのは、”フィルム”のオートフォーカスでないカメラだったことも関係あるよーな気もする。
それから(笑)、近年、視力もどんどん落ちています。