なぜ、震災地のテレビ映像は、あんなにも、リアルでないのだろうか?
管理された映像。
《蝿も、白く濃厚な死の臭気も、写真には捉えられない》(ジュネ)
この言葉を、“すでに”ぼくは何度も引用した。
しかしこの言葉は、まったくちがった状況で発せられた。
ここでジュネが目撃した死=死体は、だいいち、“暑さ”のなかにあった。
あるいは、これらの死者を死体とした“もの”は、天災(自然災害)ではなく人災(虐殺)だった。
あるいは、この<文>にさえ、文学的レトリックの浅薄さを感じてもよい。
このおびただしい死者を目撃し、さらに死におびえふるえ、飢餓や寒さ薬の不足に直面するひとびとにとって、まさに《詩を語ることは野蛮である》(アドルノ)
まして、以下の<言葉>をここに引用することは、不謹慎であろうか?;
《愛と死。この二つの言葉はそのどちらかが書きつけられるとたちまちつながってしまう。シャティーラに行って、私ははじめて、愛の猥褻と死の猥褻を思い知った。愛する体も死んだ体ももはやなにも隠そうとはしない。さまざまな体位、身のよじれ、仕草、合図、沈黙までがいずれの世界のものでもある》(ジュネ:“シャティーラの4時間”)
上記《不謹慎であろうか?》は、“不謹慎ではない”というレトリックではない。
ぼくは、現場にいない。
あるいは、ぼくの<ここ>、この時間場所は、この現在においても曖昧である。
もちろん、“その時”には、ぼくは、どんな言葉、どんな本も読めない。
しかし、“いまここ”において、ぼくは本を読み続ける。