Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

なぜ?

2011-03-19 23:51:59 | 日記


なぜ、震災地のテレビ映像は、あんなにも、リアルでないのだろうか?

管理された映像。

《蝿も、白く濃厚な死の臭気も、写真には捉えられない》(ジュネ)

この言葉を、“すでに”ぼくは何度も引用した。

しかしこの言葉は、まったくちがった状況で発せられた。

ここでジュネが目撃した死=死体は、だいいち、“暑さ”のなかにあった。

あるいは、これらの死者を死体とした“もの”は、天災(自然災害)ではなく人災(虐殺)だった。

あるいは、この<文>にさえ、文学的レトリックの浅薄さを感じてもよい。

このおびただしい死者を目撃し、さらに死におびえふるえ、飢餓や寒さ薬の不足に直面するひとびとにとって、まさに《詩を語ることは野蛮である》(アドルノ)

まして、以下の<言葉>をここに引用することは、不謹慎であろうか?;

《愛と死。この二つの言葉はそのどちらかが書きつけられるとたちまちつながってしまう。シャティーラに行って、私ははじめて、愛の猥褻と死の猥褻を思い知った。愛する体も死んだ体ももはやなにも隠そうとはしない。さまざまな体位、身のよじれ、仕草、合図、沈黙までがいずれの世界のものでもある》(ジュネ:“シャティーラの4時間”)


上記《不謹慎であろうか?》は、“不謹慎ではない”というレトリックではない。

ぼくは、現場にいない。

あるいは、ぼくの<ここ>、この時間場所は、この現在においても曖昧である。


もちろん、“その時”には、ぼくは、どんな言葉、どんな本も読めない。

しかし、“いまここ”において、ぼくは本を読み続ける。






多数の声;現実の複数の断片

2011-03-19 23:12:39 | 日記


★ ドストエフスキーのポリフォニー小説において重要なのは、単一の具象的世界の確固たる背景において対象をモノローグ的に認識し、その枠内で展開してみせるという意味での、ありきたりな対話形式ではない。問題は究極の対話性、すなわち究極的な全体にわたる対話性である。

★ 彼の小説は、複数の他者の意識を客観的に自らに受け入れる単一な意識の全体像として構築されているのではなく、いくつかの意識の相互作用の全体としてあるのであり、その際複数の意識のどれ一つとして、すっかり別の意識の客体となってしまうことはないのである。この相互作用の世界は、観察者に対しても、普通のモノローグタイプの小説のように出来事の全体を客体化するための足場を与えず、したがって観察者をも参加者としてしまう。彼の小説は対話の渦の外側に、それをモノローグ的に概観しようとする第三者のための堅固な足場を提供しないばかりか、逆にその全構造が、対話的な対立を出口のないものとするべく仕組まれているのである。作品のどの一つの要素をとっても、無関係な《第三者》の視点から作られたものはない。小説自体の中にも、そうした無関係な《第三者》はけっして登場しないのである。第三者のためには構成上の場も意味的な場も存在していない。それは作者の弱みではなく、非常な強みなのである。それによってモノローグ的な作者の位置を越える新しい作者の位置が獲得されたのだ。


★ ドストエフスキーはゲーテとはまったく反対に、様々な段階を成長過程として並べるのではなく、それらを同時性の相で捉えたうえで、劇的に対置し対決させようとする。彼にとって世界を探究することは、世界の構成要素すべてを同時存在するものとして考察し、一瞬の時間断面におけるそれらの相関関係を洞察することを意味したのである。

★ それゆえにこそ彼の主人公たちは何事も回想しないし、過去において十分に経験し尽くされたものという意味での伝記をもたないのである。彼らが過去の中から思い起こすのは、彼らにとっていまだ現在であることをやめず、現在として経験され続けている事柄、すなわちいまだ贖われていない罪、犯罪、許されざる侮辱などに限られている。


★ 各人が自分なりにドストエフスキーの本音を解釈しながら、異口同音にそれを一つの言葉、一つの声、一つのアクセントとして捉えようとしている。だがそこにこそまさしく根本的な失敗が存在するのだ。言語を超え、声を超え、アクセントを超えたドストエフスキーの小説の統一性は、解明されぬままに残っている。

<ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫1995)>