Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

並木

2011-03-07 13:53:13 | 日記


★ もう10年ほど前のこと、いったい何でそんなところを歩いていたのかもうまったく覚えていないが或る晩遅く榎田は、日暮里駅のあたりから山手線の線路に沿って鶯谷の方へ戻ってゆく途中で妙な喫茶店に立ち寄ったのである。入谷の方へ向かう自動車通りから細い路地を右に折れてゆくともう本当に国電の線路ぎりぎりのあたりに時代から取り残されたような古ぼけた一角があって、建って何十年たっているのか見当もつかないようなせせこましい家がごたごたと立ち並んでいる。しかしそのごたごたした感じが丹精した植木鉢が路地にはみ出していて濃密な生活感の漂っているいわゆる長屋の町並というのとは少し違って、もう住民からも見棄てられ、取り壊されるのを待つばかりの線路脇の一角でそのわずかな猶予の期間だけ影の薄い人々が辛うじて生活を営んでいるといった気配なのだ。そんなところに迷いこんでいくらか当惑していた榎田は、そのくねくね続く路地奥にほんの5坪ほどの小さな公園が不意に現れて、そこには玩具のようなブランコと滑り台がもっともらしく据えられたりしているのを見て、いくらか心が温まるような気持になったのだった。

★ その公園の向かいのどう見ても普通の民家としか見えない一軒に「珈琲 並木」という小さな看板が出ていたのだが、もう深夜といってもいいような時刻だというのに、汚れた曇りガラスの嵌った禿ちょろのスウィング・ドアを押してよくもまあそんな得体の知れない店に入る気になったものだと榎田は後になって自分を訝る気持にならないでもなかった。・・・・・・



★ それにしてもあの「並木」という名前はいったい何だったのだろうかと榎田は訝り、それはこの10年間一度も頭に浮かんだことのなかった疑問だった。並木さんという人が店をやっていたのだろうか。そうでなければ並木とか並木道とかいった概念とあれほど無縁な界隈もなかったような気がする。しかしあれはたしかにあの店にぴったりの名前だったというのが榎田の実感だった。鶯谷のプラットホームで電車を待っていると青空の高みから街の喧騒を貫いてピピピピピというヒバリの長い鳴き声がはっきりと聞こえ、あの女主人は死んでしまったのだという直観が榎田の頭に閃いた。

<松浦寿輝“並木”―『ものの たはむれ』(文春文庫2005)>






エロティーク=レトリーク;性愛=修辞

2011-03-07 13:01:56 | 日記


★ オルガスムスの一瞬に生起する狂的な、また聖的な爆発といったものは、実は性愛現象という広大な全体のほんの一部分をなすにすぎず、むしろより本質的と言うべきは、その決定的な一瞬に到り着くまでの引き延ばされた欲望昂進の道程の方なのではないだろうか。本来は到達不可能であるべき究極の一点へ向かっての漸次的な接近の幻想そのものにこそむしろ性愛の名を与え、その一点への最終的な逢着のありように関してはただ生物学的な必然性としてのみ語ることにした方が当を得ているとさえ言うべきではないだろうか。

★ そもそも人間の性の独自な性格を動物の性と区別するものは、性欲の満足とそれ以後の受精・妊娠の過程ではなく、不充足状態のまま維持される欲望の輝きの方であるはずだ。欲求の充足ではなく欲望の持続そのものに性の本質を見てとり、緊張からの解放つまり弛緩に伴う特権的瞬間の悦楽ではなく、延引されてゆく緊張状態の持続を耐えることの終わりを知らない快楽の裡にこそ、人間の性のもっとも輝かしい側面を感受すべきなのではないだろうか。

★ 欲望とは決して脱=我の拡散のことではなく、そのかぎりにおいてここで「わたし」は完全に消失しさりはしない。欲望する「わたし」は、そこにあくまで在りつづけるのである。「わたし」は欲望し、かつ欲望する「わたし」自身を同時に意識してもいるのであり、その意味で「わたし」が自分を完全に喪失し尽くすことはありえない。

★ しかしまた、「わたし」の現前を前提とはしながらも、欲望とはそこにおいて、人であれ物であれ「わたし」ならざる他の何かを志向する以上、「わたし」の外へ絶えず溢れ出しつづける超出体験であるには違いない。

★ 欲望の中で、「わたし」はたしかに在る。だがそれはもはや堅固な自己同一性によって保障された真正の「わたし」ではない。それはいくぶんか「わたし」ならざるものへと変容しつつある「わたし」なのである。

★ そして、聖者のものでもなく狂者のものでもない、一応は正常と見なされるそうした日々の言語的実践において、人は程度の差こそあれそのつど絶えず「わたし」の新たな生成を生きているはずだと主張してみたい。語りながら、「わたし」は「わたし」の外へと溢れ出す。言葉によって「わたし」の外に連れ出されると言ってもよい。その理由は単純なものだろう。言語が、「わたし」にとって他者のシステムでしかないからだ。言語とはこの場合、日本語やフランス語というような固有の語彙と構文法を備えた記号の装置=体系としての国語(ラング)を指しているが、それがいかに母の国の言語と形容されるにせよ、言語と「わたし」との間には、乳児とその母との間に仮定されうるような想像的な溶融関係など絶えてありえた試しがない。世界を所有するには言語の媒介によるほかないのだが、にもかかわらず言語そのものを所有しみずからに同化し尽くすことはどうしてもできないということの逆説的な事態。象徴体系としての言語との関係を生きるにあたって、日々刻々「わたし」を引き裂きつづけるのはこのパラドックスである。

<松浦寿輝『官能の哲学』(ちくま学芸文庫2009)>






恋する虜

2011-03-07 01:42:21 | 日記


★ この本のいたるところに、言葉よりもはるかに激しいもの、重いもの、残酷なもの、不安定に震えるもの、敏捷に移動するものを前にして、今にも書くことを放棄してしまいそうな姿勢がみえる。ジュネが直面したさまざまな危機、暴力、死は、たえず彼の言葉をおびやかしたにちがいない。ジュネの生きてきた時間のかたちそのものが言葉をおびやかしている。だからこそ、どんなに残酷な暗い事態も透視するジュネの視線と、彼の思考がたえず放つ穏やかな光の強さに、私たちは驚くしかない。

★ 時間は人にたえず幻想や欺瞞を強いる。時間が多くの幻想や欺瞞から成り立っているからだ。だからジュネは、事実にも幻想にもつかず、事実を幻想によって、幻想を事実によって、たえず分光し、二つの間を往復しながら、時間の震える不安定な相に忠実に、しかも時間のおびやかしにたえて、時間の真実にいたろうとする。ジュネの思考と言語を貫く空白は、そのような振動ですみずみまでみたされる。おそらく『恋する虜』が特異なのは、そんな空白を通じて、時間の真実とでもいうべき位相に言葉が浸透しているからである。

★ こうしてこの本は、一つの異様な歴史の試みとなっている。ジュネにとって、客観的な歴史も、主観的な記述も不可能で、そのような分離がそもそも存在しない。歴史を構成する一つ一つの分子や流線そのものがすでに、事件を生起させる客体的な条件と、事件を見つめる主体的な立場を複合させた二重性によって成立する。このような二重性は、行為も事件も、言葉も思考も、たえず交錯する立場のなかに振動させる。ジュネの明晰さは、このような立場にだけ成立し、そこでたえず試されているような明晰さである。

<宇野邦一『ジュネの奇蹟』(日本文芸社1994)>






世界がなくなってしまった

2011-03-07 00:49:56 | 日記


★ アレントはあれほど公的自由、公的幸福、公的精神を強調し、これを裏切り、破壊する体制を弾劾するのだが、『全体主義の起源』でしばしば私を驚かすのは、むしろ<全体主義>が、あるいは<革命>でさえもが、決して一つの意志や意図によるのではなく作りあげてしまうほとんど自動的な抑圧や閉塞のシステムに対する、彼女の不気味なほど冷徹な分析なのだ。

★ 彼女は、アイヒマンによって体現された<悪>の凡庸さに繰り返し言及した。誰か突出した悪魔的存在が収容所を作ったのではなく、ほとんど善意や忠実さに似た性向が無数に積み重なり、巨大な悪を構成した。計算づくであれ、衝動的であれ、一つの突出した凶悪さに発したものならば、決してあれほど巨大な悪が生みだされることはなかっただろう。

★ そしてアレントは、<無世界性>に抗して、<世界>を構築すること、社会的なものと私的なものに二極分解した共同社会に抗して、公的な公共空間を創設することを繰り返し強調してはいても、そのモデルを与えてはくれても、いまそれがどのように可能かを教えてくれるわけでは決してない。彼女は公共的なものについての思考を決して放棄してはならないと教え、晩年にはかなり難解な、<意志>についての哲学の素描を、未完のまま残すだけだ。これまでに理性に関する哲学も、存在に関する哲学も、決して<無世界性>を克服できなかった、と言いたいかのように。

★ <無世界性>とは、<他者>がいないということであろう。確かに<他者>は存在し、<他者>をわれわれは必要とし、<他者>とともに、<他者>によって存在するのに、道徳も、友情も、愛もたぶん欠けてはいないのに、真に<他者>と対面することができず、関係をもつことができない、という奇妙な欠如を示しているのだろう。それでもこのような欠如をかいくぐって、いつも見えない微粒子や波動が放たれている。その間に共振や結合や、交錯や衝突が起きている。<無世界性>から一気に<世界>に回帰することはできなくても、<無世界性>には無数の綻びがあって完結してはいない。

<宇野邦一“無世界性について”―『他者論序説』>