Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ふるさと

2011-03-22 09:54:25 | 日記


“現地”へ入った、藤原新也氏のブログを読んだ、引用したい;


2011/03/19(Sat)
15時26分

木々たちも青ざめている。

怖かったのだろう。


2011/03/19(Sat)
15時50分

犬猫見ない。
波にのまれた。


2011/03/19(Sat)
18時17分

満月が憎らし


2011/03/19(Sat)
21時04分

走行中。

この大惨状は新聞テレビが報じているように点ではなく線で見なければその巨大さがわからない。

暗闇の中を尽きることなく延々と続く被災荒野。

これが結局青森から茨城、そして千葉まで続くということ。

自衛隊はいまだに死体を捜している。

(略)

テレビは青森から千葉まで延々と映像を流すべき。

だが聞くとことによるとテレビ民放各社は溜まりにたまった録画娯楽番組を便秘のクソのようにいっせいにたれ流しはじめたとのこと。

ニュース以外はテレビを消そう。

ウンコ番組は見ないよう。

それは人間の矜持だ。

赤いテールランプが連なりはじめた。

渋滞か。

メシが遠い。


2011/03/20(Sun)
19時32分

闇の向こうに延々と広大な廃土。

内陸から海岸線に出るたびに驚愕。

普通は一度見た光景は2度、3度見るたびに慣れて来るものだが、何度見ても驚く自分がいる。

原爆の荒野、空襲による大火災ののちの荒野は、燃えたことによって復興が容易になるという皮肉な結果があるが、この津波による荒野は膨大な量の廃物が複雑頑強に絡みつきながら居残っている。

果たしてこれをどこに持って行くのか。

生活ゴミ処理だけでも難儀している時代にこの莫大な量の廃物の処理場や埋却地はないと言ってよいだろう。

今はそこまで考える余裕のない時期だが、やがてそれは御し得ない難題として大きく立ちはだかることは自明である。


2011/03/20(Sun)

1000回の溜息
被災地で吐くいかなる言葉もウソっぽくうつろに響く。

そこにはいなかる修飾も排したぎりぎりの事実の瓦礫のみが広がるからかも知れない。

見て来たことをただ書く気にもなれぬ。

ノーテンキにがんばろうとも言えぬ。

1000回の溜息の方がずっとまし。

だが溜息は1000回を越えてはならぬ。

今日はただ黙して寝る。


2011/03/21(Mon)
10:06

瓦礫の中、所々からムッと腐臭

屍、死してここにいると必死で信号送っているよう。
が、どうしょうもない。


2011/03/21(Mon)
12:58

子手引く、すれ違いし主婦の眼の色、青ざめ哀しみ塞き止めている。


2011/03/21(Mon)
01:55

階上(はしかみ)避難所、家族、冗談ばかり飛びかうのがきつい。


2011/03/22(Tue)
6:48

朝っぱらから流れる耳タコ希望
ラジオテレビから延々と流れる続ける希望の言葉、はげましの言葉。

言っておくがここ被災地の人々がその言葉を聞いている場面に一度も出くわしたことがない。

残念ながら1000回の耳タコ希望は重ねれば重ねるほど浮いてしまい人々にとって鬱陶しいのだ。

つまりそれは安全圏の中に住む人々の間のみで消費されている自慰行為に過ぎない。

ここ数日の経験からするなら、希望言語より人々の心に寄り添ったなげき言語の方がずっと人の心を癒すという不思議な人間の心の綾というものがあるということを希望希望と連発する人々は知って欲しい。

もしその言葉を吐くなら、私はこの震災のために(べつに大げさなことでなくとも)何をしたという小さな行為と事実を述べた上で言って欲しい。


2011/03/22(Tue)
09:11

ふるさと
それでもセブンイレブンの残骸の前にたむろする少年三人。