18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

大阪人は食にどううるさいのか?

2006-12-14 02:10:03 | グルメ・クッキング
▲JR大阪駅の桜橋口を出て地下に向けて下りていったところにある、ラーメンあらうま堂。死角にあるにもかかわらず昼は人が並ぶ店だ。

大阪に住む人は本当に世間で一般に言われる通り、食べる物にうるさいのだろうか?

大阪はもともと商人の街だから、いろいろなところで考え方が合理的に出来ているとは思うが、果たしてそれが食にどうつながるのだろうか?

大阪人は東京や他の都市から比べるとせっかちな傾向がある。いまではそれほど珍しくない青信号になるまでの秒数をカウントダウンする信号機があったり、街中の主要道路を一方通行にしたりといった事は明らかに合理性の追及ゆえだ。日本で一番最初に自動改札を導入したのも関西の鉄道会社だ。

それらの合理性志向から考えれば食べ物に対してもおおよその傾向がわかる。

まず、安い事、どこでも食べられる事、すぐに用意できるかすぐに手に入れられる事、食べるのに時間があまりかからない事、空腹を満たしてくれる事、そしておいしい事、となりそうだ。

大阪を代表する食べ物の多くは、大阪が起源ではない。オリジナルは別のところにある。

例えばお好み焼きは広島、うどんは高松、たこ焼きは明石だが、それらの食べ物が合理性の追及によって大阪流にアレンジされて、多くの人に支持されて広まっただけなのだ。

焼いてすぐに食べないとおいしさが半減する広島のお好み焼きが大阪流にアレンジされ、温めなおせばおいしく食べられるお好み焼きになり、だしにつけて食べる柔らかい明石焼きが、どこでも食べられるたこ焼きに変わり、だしをたっぷり含んだ揚げで空腹を満たしてくれるきつねうどんなどが代表的な例だ。

揚げ玉だけのたぬきうどんよりも、もんじゃ焼きよりも明らかに合理的である。

大阪の押し寿司の代表例がバッテラだがこれもいわゆる握り寿司と違ってかなり合理的に食べ物だ。

寿司飯を木枠に敷いて酢でしめたさばを載せて、乾燥を防ぐのと、風味の為に昆布を載せてから木枠の蓋を載せて押して作る。

木枠から出してしばらくおいてもおいしく食べられるし、たくさん必要な時でも誰でも簡単に作る事が出来る。

こんな風に大阪人は単に食べ物をおいしいかどうかだけではなく、手軽さや安さなどからも評価している。

いわば食べる事についての合理性が故に、食べ物にうるさいと言われているのだ。

だからという訳では無いだろうがラーメンは大阪を代表する食べ物にはなっていない。大阪人の合理性志向からは少し離れているからかもしれない。

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大阪城の住所

2006-12-12 11:17:24 | 風景
何年かぶりに大阪城の天守閣に登った。

むかしは地元だった事もあって天守閣に登らなくとも大阪城公園などには出かけたり、梅林を観に行ったりとよく付近まで足を運んだりしていたが、ここ最近は大阪城公園にも行っていない事に気付いた。

今の大阪城は昭和になって立て直したものだから、昔から大阪城歴史博物館的な建物になっている。太閤さんや真田幸村などの史実や、大阪城の隠し通路の話などは今この年になって改めて興味を惹かれるテーマだ。

姫路城のようなそれ自体には歴史的価値はないのだが、それでも大阪城はいつまでも大阪人にとって、ひとつの象徴というか、無くても困らないけど無いと落ち着かないという存在になっている。

さてこの大阪城。冒頭で書いた通り、久しぶりに来て見つけたのが、入場券売り場の住所表示板。写真の通り“大阪城1丁目”である。当たり前と言えば当たり前だが、いつからこの住所なのか知ってる人は少ないのではないかと思う。



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謎のサンマーメン

2006-12-09 11:02:37 | グルメ・クッキング
食べ物続きで…

先日、仕事で横浜へ出かけた時のこと。朝からの打ち合わせがお昼少しまわって終了したので、昼食にラーメンを食べに行きましょうと言う話になった。

場所はJR横浜駅東口を出て10分も歩かないぐらいのところ。店の名前は「幸楽」、近くの人ならもちろんすぐに分かる。

一緒に行こうと誘ってもらった人の話によるとこの“サンマーメン”はこの店の名物らしい。自分達の後から店に来た客もこの“サンマーメン”を注文していた。

さて、この“サンマーメン”。写真では写っていなくて見えないがやや
細目の縮れた中華麺に油通ししたか、さっと炒めた野菜が載せられ抑え目のあんがかかったスープがかけられている。
味は醤油味で結構おいしかった。東京駅の中華粥とは大違い。

やっぱりこの季節、あたたかい中華はありがたい。

“サンマーメン”の名前の由来を訊かないでお店を出てので次回機会があれば是非確認したい。

この“サンマーメン”を注文すると、店内でオーダーを通す時、店の人は期待通りに“サンマ”と省略して呼んでいる。“サンマ4つ!”なんていうのが店の中から聞こえてくると、知らない人からすれば、「ん?」と思ってしまうだろう。そういう街の中華料理屋とサンマの組み合わせが奇妙で面白い。


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駅ナカの朝粥

2006-12-07 18:21:52 | グルメ・クッキング
仕事で出張時や移動先での楽しみのひとつに食事がある。

今朝も朝が早い出張だったので、朝食を駅で何か買って済ませようと考えていたら、最近流行の駅ナカのお店に、「東京中華食堂」という店があるのを見つけた。

店の前に置かれたメニューの、朝粥セットがおいしそうだったのでそこに入って、「蒸し鶏の中華朝粥セット」を注文した。

ドリンク付きで700円なので東京としては安い方だか、この朝粥、全く暖かくなく、かなりぬるいのだ。

初冬の朝に食べる中華粥を想像してみてもらえれば理解してもらると思うが、大概の人はあたたかい湯気のたった中華粥をイメージすると思う。
しかし、配膳された物はぬるくて湯気も立ってなくて、蒸し鶏も冷蔵庫から、いま出しましたっていうのが分かるくらい冷えてて、添えられていた温泉たまごも、冷たかった(ToT)

それを知らずに、それで無くても暖かくない中華粥にその冷えた温泉たまごをいれたから、余計に冷たくなった朝粥を食べる事になってしまった(>_<)

大阪人的にいわせてもらえば、「じきにつぶれるであの店」となる。月に一度でもいいから定期的に自分たちのサービスをモニターする事をお勧めする。いわゆるやらされサービス業になっているのだろうから、そういう人達には、自分たちを客観的に見る機会を作って分からせるしかない。その事自体は難しい事じゃないと思うのだがどうだろう?

ただ自分では間違いなく次からは利用しないと決めたが…



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子どもは大人社会の鏡

2006-12-02 20:06:17 | 風景
 会社の中や職場でも、「いじめがある」。いまさらながらであるがYahooなどにも記事として出ているが、子どもは社会の鏡という言葉通りだなぁと思う。

 いま殆どの人が自分自身のあり方について自信をもっていない。いまの自分でいい、ということを自分自身に対して言えないでいる。それは、例えば、自分たちの生活レベルや収入、住んでいる家、持っている車、着ている服などが、雑誌やテレビで紹介されるよりも遙かに見劣りしていることにも少しは関係あるのかもしれない。

 あるいは、ビジネスで成功している男女として取り上げれれている各種メディアの記事などにも関係あるのかもしれない。

 そういう報道されている人と比較して、「あーあ、自分はどうせこれくらいの人生だろうなぁ」と思わされている。そんな考えはいったいどこから来るのだろうか?

 少し前にも書いたが、人の価値を”何かを所有している”という単純な図式でしか測れないという、幼稚な人生感も大きいのではないか?

 どんな生き方をするのかよりも、何を持っているのか?ということで幸せかどうかを測る。そんな発想だとあきらかに無間地獄に陥ることになる。

 自分は不幸だと、自分の満たされていない我欲によって自分自身が操られて、満たされないことを他人のせいにして、不満を抱えながら生きる。必死で働くことをハズカシイと思う感覚が、楽してもうける人のマネができないかという事にまで発展してしまっている。そうこうするうちに、あきらめの気持が出てきて、生活が荒れる。そうなるともう世間の良識など関係なく、我欲のままに存在することになり、子どもの存在や、夫、妻の存在もうっとおしくなり、虐待の対象となる。

 そういう満たされない状態の中で、なんとか「自分はマシ」と思いたい気持であるとか、「多くの同じような、満たされない気持」を持っている人たちと一緒になって、自分たちよりも弱い存在を見つけては虐めたり、異質の考えを持っている存在を排除したりする。

 自分たちよりも弱い存在といってもそんな圧倒的な差があるわけではないから、その弱い存在の姿に、どうしても自分の姿が重なる。そう、その弱くて、みたくない存在と自分との間の共通点を排除したくなる気持が働き、弱い物イジメを平気で行う。弱いイジメをする連中は、虐めた対象に、自覚の有無に関係なく、自分を見つけているからなのだ。

 また、異質のものを受け入れる懐の深さなんて期待できない。所詮”物欲”にだけ操られているから、その物欲のどこがわるいのだ?という考えに合わないと”変なやつ”というレッテルでも貼っておかないと、不安なのだ。

 こういう人たちは、自己という精神の脆さに対する恐怖心が強いから人の話を受け入れられない。聞く耳を持たないとでもいえばいいのだろうか。 

 その結果、世間では通用しないような理由を付けて、我欲のままに生きるしかない。脆いから、弱いから徒党を組みたがる。自分に自信がなく、他人を排除することでなんとか平静を保つようになる。そうやって他人排除をやる。

 また、一方で排除される側の人間が必ず強い自己を持っているとは限らないから、排除されたと敏感に感じ取ったり、あるいは過敏に反応したりしてしまう。だからといって相談する、徒党を組む仲間もいないから、簡単に死を選択してしまうだとか引きこもったりしてしまう。

 いまは、そういう病的な未成熟な精神をもったままの人が年齢だけを重ねている世の中なのだ。

 だから、成熟した精神を持ち合わせている人は、もっともっと多くの価値観が認められる世の中にしなければならない。他人を受け入れ、イジメを悪いこととして、子どもにしつける。我欲よりもルールを守ることの大切さを教えなければならない。

 夜遅くまで起きていても誰にも迷惑を掛けないからほっとけ!といって、幼い子どもを深夜10時をすぎても寝かせないでいる親、3歳ぐらいからテレビゲームをさせて平気な親。個人の勝手だ!という理屈は一見聞こえが良いが、それは単に他人の意見を素直に受け容れることができない、幼稚な親でしかない証明なのだ。自分の都合だけで子どもを育てる幼稚な証明なのだ。

 法律で刑罰を厳しくすることも必要だろうが、しっかりした価値観をもって精神を成長させることこそ、いま起きている多くの犯罪を少なくさせるもっとも効果的な手段だと思う。
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