18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

子どもは大人社会の鏡

2006-12-02 20:06:17 | 風景
 会社の中や職場でも、「いじめがある」。いまさらながらであるがYahooなどにも記事として出ているが、子どもは社会の鏡という言葉通りだなぁと思う。

 いま殆どの人が自分自身のあり方について自信をもっていない。いまの自分でいい、ということを自分自身に対して言えないでいる。それは、例えば、自分たちの生活レベルや収入、住んでいる家、持っている車、着ている服などが、雑誌やテレビで紹介されるよりも遙かに見劣りしていることにも少しは関係あるのかもしれない。

 あるいは、ビジネスで成功している男女として取り上げれれている各種メディアの記事などにも関係あるのかもしれない。

 そういう報道されている人と比較して、「あーあ、自分はどうせこれくらいの人生だろうなぁ」と思わされている。そんな考えはいったいどこから来るのだろうか?

 少し前にも書いたが、人の価値を”何かを所有している”という単純な図式でしか測れないという、幼稚な人生感も大きいのではないか?

 どんな生き方をするのかよりも、何を持っているのか?ということで幸せかどうかを測る。そんな発想だとあきらかに無間地獄に陥ることになる。

 自分は不幸だと、自分の満たされていない我欲によって自分自身が操られて、満たされないことを他人のせいにして、不満を抱えながら生きる。必死で働くことをハズカシイと思う感覚が、楽してもうける人のマネができないかという事にまで発展してしまっている。そうこうするうちに、あきらめの気持が出てきて、生活が荒れる。そうなるともう世間の良識など関係なく、我欲のままに存在することになり、子どもの存在や、夫、妻の存在もうっとおしくなり、虐待の対象となる。

 そういう満たされない状態の中で、なんとか「自分はマシ」と思いたい気持であるとか、「多くの同じような、満たされない気持」を持っている人たちと一緒になって、自分たちよりも弱い存在を見つけては虐めたり、異質の考えを持っている存在を排除したりする。

 自分たちよりも弱い存在といってもそんな圧倒的な差があるわけではないから、その弱い存在の姿に、どうしても自分の姿が重なる。そう、その弱くて、みたくない存在と自分との間の共通点を排除したくなる気持が働き、弱い物イジメを平気で行う。弱いイジメをする連中は、虐めた対象に、自覚の有無に関係なく、自分を見つけているからなのだ。

 また、異質のものを受け入れる懐の深さなんて期待できない。所詮”物欲”にだけ操られているから、その物欲のどこがわるいのだ?という考えに合わないと”変なやつ”というレッテルでも貼っておかないと、不安なのだ。

 こういう人たちは、自己という精神の脆さに対する恐怖心が強いから人の話を受け入れられない。聞く耳を持たないとでもいえばいいのだろうか。 

 その結果、世間では通用しないような理由を付けて、我欲のままに生きるしかない。脆いから、弱いから徒党を組みたがる。自分に自信がなく、他人を排除することでなんとか平静を保つようになる。そうやって他人排除をやる。

 また、一方で排除される側の人間が必ず強い自己を持っているとは限らないから、排除されたと敏感に感じ取ったり、あるいは過敏に反応したりしてしまう。だからといって相談する、徒党を組む仲間もいないから、簡単に死を選択してしまうだとか引きこもったりしてしまう。

 いまは、そういう病的な未成熟な精神をもったままの人が年齢だけを重ねている世の中なのだ。

 だから、成熟した精神を持ち合わせている人は、もっともっと多くの価値観が認められる世の中にしなければならない。他人を受け入れ、イジメを悪いこととして、子どもにしつける。我欲よりもルールを守ることの大切さを教えなければならない。

 夜遅くまで起きていても誰にも迷惑を掛けないからほっとけ!といって、幼い子どもを深夜10時をすぎても寝かせないでいる親、3歳ぐらいからテレビゲームをさせて平気な親。個人の勝手だ!という理屈は一見聞こえが良いが、それは単に他人の意見を素直に受け容れることができない、幼稚な親でしかない証明なのだ。自分の都合だけで子どもを育てる幼稚な証明なのだ。

 法律で刑罰を厳しくすることも必要だろうが、しっかりした価値観をもって精神を成長させることこそ、いま起きている多くの犯罪を少なくさせるもっとも効果的な手段だと思う。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ユニバーサルサービスってさ... | トップ | 駅ナカの朝粥 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿