18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

報道する人たち

2005-05-05 22:28:22 | 
 さて、このブログを書いている最中に気になる報道があったので記しておく。

 2005年5月5日の”報道ステーション”ではJR西日本の支社長の発言を記録した内部文書を入手し、JR西日本がいかに安全軽視であるかを伝えようとしているが。ええ加減にしないとあかんよ。マスコミはこれだから嫌われる。発言の切り抜き・貼り付けをテレビで報道する、いつもの手だが事実に基づいてはいるがそれに上手く”常識的な感覚”としての感想を付け加えてそれらをひっくるめて報道であるかのように放送する。マスコミの報道は時には大切だが、ある程度以上になると、くどい。事実を分かってない人たちがよってたかって誰かを悪役に仕立てる。そして被害者の立場に立つ報道をくりかえし行なう。そこには人権もなにもあったものではない。報道する側が、あたかも”正義”であるかのような錯覚でもしているのだろうか?まちがってはならない、報道は報道以外の役割はないのだ。



一所懸命のひととそうでない人と

2005-05-05 22:26:46 | 社会・経済
 尼崎列車脱線事故の当日に、ボウリング大会が開催されていたというお粗末な事態にさすがの社長も怒りのもって行きようがなかったに違いない。

 一部の例外を除いて、やはり企業の幹部になる人間は仕事に対して大変まじめだし、真剣である。特にこういう事態では社員一人一人がどのように動くべきかについての認識の差が大きく出るのである。よもや社内の催事などはやっておらないだろう、全社一丸となって負傷者や関係者への対応に当ってくれているであろうという社長の希望をよそに、社内の行事で3次会まで繰り出した者もいるという本当に情けないと言う気持ちであっただろう。

 マスコミらはJR西日本の企業体質だとか、営利追求だとか、新型ATCの設置の遅れだとか、秒単位の管理だとか、いろいろ好き勝手に騒いでいるし、テレビインタビューにJR西日本の現役運転手などが出ているが、企業は一人一人の社員からなっているこをともう一度認識しなければならない。確かに責任は社長や重役が取ることになるだろう、しかしJR西日本を作っているのは、間違いなく、全社員なのであることを忘れてはならない。組合員であろうとなかろうと、一切関係ない。どういう指導を受けてきたかなどもそんなものは一切関係ないのだ。社員であるかぎり他人にも被害者にもなれない。例え自分が起した事故でなくてもあきらかに加害者なのだ。

 どんな仕事であっても、働くということのなかで大切なのは、自分たちの仕事に誇りをもって、そのプライドに恥ずかしくない仕事をするために一所懸命にやることである。妥協という言葉はないのだ。妥協したら未来は無い。個人であっても会社であってもそうだ。

 1秒単位での遅れやオーバーランを繰り返さない為に社員同士がお互いにやるべきことはなかったのか?30代の中堅社員が居ないことで技術や技能が伝えられなくてそのままにしていたのは、会社なのか現場なのか?異なる車掌区だから関係ないのか?などどこか、妥協や言い訳をしていなかったのか?本当に人や自分の子供に自慢できる立派な仕事をやっているという誇りはもっていたのだろうか?JR西日本が本当に生まれ変わりたいのなら、それは社長だけの努力ではムリである。社員ひとりひとりが本当に心の底から今回の事件は自分も責任の一端があるということを理解しないとスタートさえできない。



Shall we dance?

2005-05-04 22:37:09 | 映画
▲写真はニューヨークのプレミア会場

久しぶりの映画の日記。

 前回からいままで映画を見ていないわけではないが、久しぶりに日記にしようと思う映画が、リチャードギア、ジェニファーロペスのShall we dance?である。

 この映画のストーリーについては別にして、30代後半、40代の夫婦の微妙なこころの揺れを上手く表現しているシーンが随所にあり、大変共感できた。

 たしか、30代の頃だったとおもうが、家内の友人が離婚するという話題になったときのその友人曰く、「わたしはいろいろ不満があるのに、ダンナは不満はないって言うのよ。」だとのこと。それを家内に言われて「僕も不満はないよ。」というと、「ほらね、女の方がいろいろと不満があるのよ。」という。雲行きが怪しくなってきたのでそれ以上の会話を避けたが、そんなものなのかなぁとずっと実は思っていた。

 しかしである、リチャードギアがこの映画のなかで、ダンスをしていたことを妻であるスーザンラン丼に謝るシーンで、「いま以上に何か満足させるものを求めてしまった。」という意味のセリフを言うのだ。
 
 そうなのだ、男は既にしっかりと仕事をしていてそれなりの情熱を注げていて、給料もそこそこもらい、家もなんとか手に入れて子供もそれなりに育っている、それで実は十分に満足なのだ。それ以上は敢えて強く求めるものはないと考えているものなのだ。だからリチャードギアも、そのような主旨の事を説明しているのだ。ハリウッド映画でさえもそのようなシーンがあるということは、それはそれで世界共通なのかも知れない。・・・と内心ちょっと安心した。

 休日にゴルフとか野球とかにばっかり出かけて家族サービスがこれっぽっちもない家庭での実情はどうなのかは分からないが、”人付き合いを阻害しないのであれば”きっとそのお父さんからゴルフや野球を取り除いても実は殆どの場合、”まあ仕方ないか”と考えているのではないかと思う。

 世の奥さん方は、それらをよく分かった上で、”私には不満が多いが、夫は不満が少ないからどこか不公平だ。この不公平を無くす為に、私が満足するような何かを与えるか、その為に何かをしろ!”というのは実は全くの感覚の差なのである。かといって、お父さんたちもそれにあぐらをかいていてはいけないのだが。

 そういうことを踏まえて、30代後半、40代の夫婦にはオススメの映画である。





アメリカ人は何しろ会話好き

2005-05-02 23:50:29 | 
 ▲ウェルカムディナーの模様

 先週、仕事でフロリダで開催されたあるコンファレンスに出席。長い旅路だったがいろいろな人と意見交換ができて有意義に過ごせた。

 そのコンファレンスは全体で月曜日から木曜日の午前まで3日半あり毎日午前午後ともセッションが目白押しという状態。ネイティブの英語に若干苦労しながら過ごしたが、改めて気づかされたのは、彼ら(アメリカ人)の会話好なことである。

 まあ、しゃべるしゃべる、朝食会場でもランチ会場でも、セッションの合間のティーブレークでも、セッションが終わってからのディナーパーティーでも、まあよくこれだけしゃべるなぁというぐらいしゃべる。しかも世間話ではなく、みんな仕事についての意見交換だったりするから、さすがである。

 コンファレンスの種類にもよるが、やはり責任あるポジションに着いている人は、他の会社の人の同じ仕事を担当しているひととの情報交換や意見交換、時には議論を交えて自分の意見の妥当性を確認しているのである。

 その会話の場を、朝食会場やランチ、ディナーパーティーで演出し、円テーブルなどを囲んで、さっきまで全く知らなかった同士が会話を始めるのである。「え、日本から?そりゃ大変な旅だったでしょ?」というところから始まって、自己紹介を経て今回のコンファレンスへの参加目的や印象を話してゆくうちに、本題である自分の関心事に対しての相手の意見を聞くように話が展開するのである。

 もちろん立場が違う場合もあるのだが、さすがにこういう場ではかなりフランクに会話が始められるのでありがたい。

 仕事帰りのお酒の席でも、上司部下を引きずる日本人としては、こういう習慣は見習いたいものである。