18年にもなりますか

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英語の必修化は必要ない?ある?

2006-09-28 00:20:50 | 文化・芸術
 Yahooのニュースによると、次期学習指導要領に盛り込まれる見通しの小学校5年生以上の英語必修化について、伊吹文明文部科学相は「必須化する必要は全くない。まず美しい日本語が書けないのに、外国の言葉をやってもダメ」と必修化に慎重な考えを示した。とある。

 ここで改めて問いたいのは、英語を学問として学ぶのか、言葉として、コミュニケーションの道具として学ぶのかという点である。

 「美しい日本語が書けないのに」という下り。これは国語を勉強するのは、美しい日本語を書いたりできる能力の為だと言っているが、いままでそんなことを意識して国語を勉強したことは無い。そんなやつ居るの?

 ましてや、英語などの場合など、SVOCだの関係代名詞だの、現在完了形とか言って文法ばっかりやらされたからどう考えてもコミュニケーションの手段として学んだと思っていない。

 自らの経験からすると、きれいな日本語を書けるようになりたいなら、たくさん作文を書かせて、よい文章を読むしかない。言葉遣い、文章表現力、漢字の誤用などがどんどんと直されてゆく。またそういう中で、いろんな表現を覚えるから、文章表現のバリエーションが増えて、将来役に立つのは間違いない。

 例えば、ある料理を食べても、”おいしい”としか言えないタレントと、”芳醇な香りで、まるで南フランスに射す夕日のようなたおやかさ”などというタレントでは、どちらが知性を感じさせるかといえば当然後者だし、タレント生命も自ずと後者のほうが長くなる。

 その為には、そういう表現ゴッコをしたり、作文を書いたりするのがいい。国語の学び方をそんなふうにすれば、日本人はもっと言い言葉遣いができるはずだし、手紙や文章を書くときにも役立つ筈である。

 日本語を学ぶ本来の目的が、もし「美しい日本語を表現豊かに使えるようになる」ことであって、テストで点を取る為ではないなら、そういう学び方が認められても良いはずだ。


 もちろん英語も言語だから、日本語と同じく、表現豊かに使えるようになることが本来の学ぶ目的であるはずだ。言葉として、コミュニケーションの手段として学ぶ英語は、小学校からでもやればいいと思う、いやそれどころか、小学生から学ぶべきだとおもう。

 日本語がきちんとできてから、英語を・・・というのはどこか形式主義的で納得できない。そんなこと言い出したら、帰国子女達はどうなるのさ?と言いたくなる。コミュニケーションとしての言葉には学ぶ順番は関係ない。

 自分自身としては、日本人はもっともっと英語を使う場を持つべきだと思っている。このブログで、何度かアメリカ人は議論好きということを書いたが、やっぱり彼らと議論しあいながら、意見交換をしたりいろいろな事を学んでゆくことが大事である。

 日本ではそういう場が少なすぎる。その結果、英語での議論の場に参加できずに、その場の外でへらへら愛想笑いしているのだ、場の中に居る人達からすれば、場の外にいるのは理解出来にくい連中ということになるのだ。いまでもそうだと思うが、海外でのホームステイ生活でも、すぐに日本人同士が集まるのは全然変わっていないようだ。せっかくの海外での生活なのにである。

 英語の不得意トラウマを作ったのは、英語を学問として学ぼうとさせたからだと思う。英語をコミュニケーションの道具として学ぶようにして、高校や大学でも入学試験科目などせずに、就学中の成績だけで判断すればいいのだ。普段の授業でコミュニケーションのツールとしての英語の習熟度を評価すればいい。もちろん英検やTOEIC、TOEFLなどの結果も参考にすればいい。入試科目には必要ない。そうすればSVOCだとかで悩まなくてよくなる。みんなコミュニケーションツールとしての英語に堪能になれる。こんなハッピーなことはない。

 そうすれば議論の場の中に入れる。理解されるし、友達も増える。こんなにいいことはない。

 くれぐれも英語や日本語は学問としてではなく、言葉、コミュニケーションツールとして学ぶことを忘れないことだ。そうすれば学んだ言葉の数だけ世界が広がるはずである。




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よみかきそろばんの真の意味は

2006-09-22 22:58:10 | 文化・芸術
 文章を書くこと、日記を書くこと、ブログを書くことはどうも共通点があるようだ。IT関係の仕事をしていて思うのは、以前にも書いたとおりお互いに話していることを理解する能力がどれほど大切かということだ。

 その為にも、本を読み、話を聞き、説明資料を作成し、文章を書き、人前で話すということを少しずつでも続けなければならない。

 昔から、商売人あるいは丁稚奉公の為には、読み書きそろばんと言ったが、つまり、読める、書ける、計算できるというのはビジネスをする上での必須能力だということだ。

 ところが、この3つの能力。案外難しいのである。

 読み書きそろばんと言っても、単純に日本語が読めるだとか、書けるだとか、四則演算が出来るというわけではない。

 例えばそろばんならば、原価10円で500個仕入れた生菓子を100円で売るとしたとき、何個余ると赤字か?なんていうことの"感覚”を言っている。

 仕入に5000円使っているからまず5000円分は取り戻さないと仕入をカバーできない。1個90円の利益なので割り算すると55.5なので100円で56個売ればまず元は取れた状態。ところが56個売れる前に値引きをしてしまうと、この数がまた増えてしまう。あたりまえだが、商売人は、やった商売がどれだけの現金獲得に繋がったかを感覚で計算する。これが損得勘定である。

 かろうじて56個うれば、あと売れた分は全部利益の上乗せだから、いくらで売るかはそれこそ商品の残り具合である。仕入10円だけど56個売れてから1個10円で売ってもそれは利益。これが損して得取れの後ろの横たわるロジックである。
 つまり、損はしないことは分かったから、あとは”お客さんに、うちの店を選んでもらう”経費のような扱いで、少ない利益でも商品を売るのだ。

 食べ物を粗末にするのはDNAレベルで気が引けるからいやなのだが、どうしても廃棄しなければならなかったとしても、56個以上うれていれば、それは勉強代。確かに売れるともっと儲けられたのにと思うが、そもそもそんな商売はよほどの事がないかぎり無い。

 読むことは、まさに人の話を聞いて本心を読むことに繋がる。お客様から「あんたのとこの商品こんなんやったで!」とクレームを付けられたとして、それをそのままクレームとして受け付けるのは商売ではない。「いやぁー、すんまへんー、そんな商品お渡ししてしもて、ところでどうなってましたぁ?」とどんどんとお客と仲良くなる。そして新品と交換するのはもちろん、「これも、つけときますゎ」となにかサービスすることを忘れない。

 そうするとどうなるか。そういう「うるさ型」のお客ほど、いい話もついつい人にしゃべるもの。「あの店、すぐ交換してくれたでぇ」というのは価格ドットコムでも有用な情報の一つだ。これが読むということ。

 書くのは、一番難しい。商売ではあたりさわりなく、さりげなく「うちはちがいまっせ。」を主張しているもの。書くことで、この書いたモノを人が読んだときにその人はどう思うかを考えて書くのだ。これは”書く”と表現されているが、もちろん”言う”ことにもつながっている。

 「あのー、こういう商品ありませんかぁ?」というお客様がいたとき、この言葉から、「ありません」という言葉が来てもショックを受けたくない心理が働いていることを見抜く(読む)ことができれば、「あー、すんませんなぁ、いま、ちょうど、うれてしもて、まだはいってきてませんねん。」とか「きらしてしもてぇ、すんませんなぁ」と返すことができれば最高である。
 
 「ありませんねん。」では不合格だし、「ありません。」や「おいてません」は退場である。「ありませんかぁ」とこわごわ訊いているのだから、できるだけソフトに返すのが常識である。「おいてません」がダメなのは、そこに売る側の主体性が見えてしまうからだ。「はいってきてません。」や「きらしてしもて」は、外部に原因がある表現になって、店としては売りたいのだけども。が伝わるからだ。これが”書く”ちからなのだ。

 こう考えると、読み書きそろばんも、もう一度見直してもいいかも知れない。


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ルーブル美術館展

2006-07-03 02:28:16 | 文化・芸術
 ちょうど東京芸術大学の学内の美術館で、ルーブル美術館展が開催されている。今回の展示は、ギリシャ時代の彫刻と陶器などで、ダ・ヴィンチコードに関連した絵画などは一切ない。

 ギリシャ時代の彫刻、およびそのローマ時代の再生ということもあって背景には、キリスト教ではなく、ギリシャ神話が存在している。ギリシャ神話は多神教、教というぐらいだから宗教だったのだろうが、詳しくはどんな宗教だったのかは解説されていなかった。ギリシャ神話には、系統図というのがあり、それには諸説があるのだが、わかりやすく言えば、日本の神道のような、神様の兄弟や親、親戚関係が決められているということだ。

 ギリシャ神話でいう、アフロディーテが、ローマ神話ではヴィーナスになるといった変遷もあって、なかなか全体をとらえるのが難しいようだ。

 さて、この展覧会で、は大小多くの彫像が展示されているが、どの彫像もしっかりとした肉体を表現している。男性の神の彫像は、筋肉隆々といった訳ではなく、適度に脂肪もついているような表現が成されているし、女性の神の彫像では、現代の美的感覚よりもはるかにふくよかに表現されている。男神、女神とも極端な肉体表現がなされているわけではない、どちらかといえば全体に肉付きがよい体格表現となっている。

 神話の登場人物を、大理石でこのような彫刻をし彫像を作るということは、それなりの尊敬、あこがれを表現しているはずだから、察するにギリシャ人はおおかたの人たちはやせ細っていたのではないかと考える。

 いつでも本物の作品にはそれなりの迫力があるといっているが、今回も彫像をいろんな確度から眺めてその重厚さに関心されられた。個人的には、やっぱり絵画のほうが好きなのだが・・・。

 この展覧会で、出品されていた彫刻の中でも大きさ15センチぐらいのものが幾つかあった。そのなかで、個人的に好きなのが、ニケである。大きな彫像は、頭部のないサモトラケのニケが有名だが、この展覧会では、ちいさなニケが2点ほどだったか出品されていた。ほぼ全身像のニケを観られるとは思わなかった。

 余談だが、このニケは、勝利の女神でNIKEと書く。あのナイキ社の社名の元となった女神だ。ナイキ社の有名なあのマークは、NIKEの翼の図案化したものだ。

6月17日から8月20日まで東京芸術大学大学美術館(上野公園)にて開催

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