オルレアン。
何とロマンティックな響きでしょう。
フランスの中央部(文字通り東西南北の中心辺り)に有って、古代ケルト族ガリア人達にとってシーザーのローマ支配に対抗する拠点であり、いにしえのフランス・カペー王朝にあって、パリとシャルトルと並ぶ、三大主邑の一つでした。
ロワール以北の『オイユ語』と、以南の『オック語』の両文化圏に接し、ロワール以北の大陸性気候と、以南の地中海性気候との相接する、地政学的にも政治力学上でも文化的にも、さらに東西貿易と南北貿易の交差路としても、フランスにあって現在でも最もシンボリックな町です。

町の南はロワールの流れが悠久の時を刻んでいます。
ここに橋がある事が、政治的文化的経済的にオルレアンの優位性を保証していました。
現在の橋は、十七世紀半ば、ルイ十四世時にかけられた物です。
そして、ここに掛っていた橋こそが、フランス王家『ヴァロワ家』の存続の鍵となりました。
百年戦争も終盤を迎え、フランスの大半がイングランド王に帰順して、フランス王家に残った<最後>の拠点の町が<オルレアン>だったのです。
1428年秋、フランス王家との死闘『百年戦争』にいわば<王手>を懸けて、イングランド王家は当時国王摂政であったベッドフォード公爵配下の、イングランド軍最強部隊がオルレアンを包囲します。
指揮するはサリスバリー伯爵。
配下には重装騎兵四百騎。
ちなみに当時の重装騎兵とは、鎧の重さ4~50キロ、右手に大太刀、左手に大楯、右脇の下に途方も無い重く長い槍を手挟み、前後を10騎の補佐約の騎士に囲まれ、その前後には数十からなる徒(かち)の兵士が配置された一個の装甲部隊なのです。
つまり当時イングランド軍は歩兵を数えずに、騎兵だけで4~5000名の大重装騎兵部隊だったのです。
当然その他に、弓隊、弩(ボウガン)隊、槍隊、歩兵部隊にくわえて、投石機(カタパルト)や攻城機等々。
守るフランス側は、町を6町内に分けてそれぞれを守る騎士が50名ずつ、計300の守備隊。
そして、補給が無くなり、完全に町が孤立してしまって、落城寸前だったまさにその時、『神の使わせし<ジャンヌ・ダルク>』が登場します。
橋の対岸を守る<トウーレル砦>の攻防をジャンヌが制して、その局面が天下分け目となりました。
1429年5月8日、オルレアンは解放されます。

町の中心の『マルトロワ広場』には、ジャンヌが騎馬で今も町を守っているがごとくに、飾られています。
毎年5月8日<ジャンヌ・ダルク記念日>には、その年の<ミス・オルレアン>が<ジャンヌ・ダルク>の扮装で町を練り歩きます。

オルレアン市内の『ジャンヌ・ダルクの家』です。
ジャンヌ・ダルクは<デビュー戦>で華々しい勝利を納めたため、『オルレアンの少女』と呼ばれます。
彼女の登場が、滅亡のふちにあったフランス王家に、大転換期をもたらします。
彼女の存在は、<錦の御旗>どころではないのです。
『神の使者』に<弓>は引けません。
そして、オルレアンの<橋>を失ったイングランド側は、フランスの南半分に展開した部隊への補給と連携が困難となり、分断されてしまいます。
その後の戦局はがらりと変わり、フランス側は、全土のイングランド王家の領地を奪い返し、1066年『ノルマンディー家』による初のイングランド統一王朝の成立以来、四世紀続いた<フランス人>両王家の対立にフランス王家が勝利します。
イングランド王家は、もはや二度と<大陸>に野心を示さなくなり、ブリテン島の経営に専念する様になって、自分達の言葉<フランス語>を捨て、地元の庶民の言葉を宮廷でも使う様になり、<英語>が確立して行くのです。
一方フランスは、彼女の働きにより、各庶民が<祖国>という概念を持つにいたり、精神的国観がヨーロッパでいち早く<近代化>し、その後のヨーロッパ全土に置けるフランスの<優位性>が確立して行くのです。
一世紀後、フランスもイスパニアにやや遅れて<大航海時代>に突入し、北アメリカ大陸に到達し、<ケベック>地方の開発や<セント・ルイス>の建設等と並んで、このオルレアンから旅立った入植者達が開いた町が、『ニュー・オリンズ』で有る事を、付け加えておきます。
何とロマンティックな響きでしょう。
フランスの中央部(文字通り東西南北の中心辺り)に有って、古代ケルト族ガリア人達にとってシーザーのローマ支配に対抗する拠点であり、いにしえのフランス・カペー王朝にあって、パリとシャルトルと並ぶ、三大主邑の一つでした。
ロワール以北の『オイユ語』と、以南の『オック語』の両文化圏に接し、ロワール以北の大陸性気候と、以南の地中海性気候との相接する、地政学的にも政治力学上でも文化的にも、さらに東西貿易と南北貿易の交差路としても、フランスにあって現在でも最もシンボリックな町です。

町の南はロワールの流れが悠久の時を刻んでいます。
ここに橋がある事が、政治的文化的経済的にオルレアンの優位性を保証していました。
現在の橋は、十七世紀半ば、ルイ十四世時にかけられた物です。
そして、ここに掛っていた橋こそが、フランス王家『ヴァロワ家』の存続の鍵となりました。
百年戦争も終盤を迎え、フランスの大半がイングランド王に帰順して、フランス王家に残った<最後>の拠点の町が<オルレアン>だったのです。
1428年秋、フランス王家との死闘『百年戦争』にいわば<王手>を懸けて、イングランド王家は当時国王摂政であったベッドフォード公爵配下の、イングランド軍最強部隊がオルレアンを包囲します。
指揮するはサリスバリー伯爵。
配下には重装騎兵四百騎。
ちなみに当時の重装騎兵とは、鎧の重さ4~50キロ、右手に大太刀、左手に大楯、右脇の下に途方も無い重く長い槍を手挟み、前後を10騎の補佐約の騎士に囲まれ、その前後には数十からなる徒(かち)の兵士が配置された一個の装甲部隊なのです。
つまり当時イングランド軍は歩兵を数えずに、騎兵だけで4~5000名の大重装騎兵部隊だったのです。
当然その他に、弓隊、弩(ボウガン)隊、槍隊、歩兵部隊にくわえて、投石機(カタパルト)や攻城機等々。
守るフランス側は、町を6町内に分けてそれぞれを守る騎士が50名ずつ、計300の守備隊。
そして、補給が無くなり、完全に町が孤立してしまって、落城寸前だったまさにその時、『神の使わせし<ジャンヌ・ダルク>』が登場します。
橋の対岸を守る<トウーレル砦>の攻防をジャンヌが制して、その局面が天下分け目となりました。
1429年5月8日、オルレアンは解放されます。

町の中心の『マルトロワ広場』には、ジャンヌが騎馬で今も町を守っているがごとくに、飾られています。
毎年5月8日<ジャンヌ・ダルク記念日>には、その年の<ミス・オルレアン>が<ジャンヌ・ダルク>の扮装で町を練り歩きます。

オルレアン市内の『ジャンヌ・ダルクの家』です。
ジャンヌ・ダルクは<デビュー戦>で華々しい勝利を納めたため、『オルレアンの少女』と呼ばれます。
彼女の登場が、滅亡のふちにあったフランス王家に、大転換期をもたらします。
彼女の存在は、<錦の御旗>どころではないのです。
『神の使者』に<弓>は引けません。
そして、オルレアンの<橋>を失ったイングランド側は、フランスの南半分に展開した部隊への補給と連携が困難となり、分断されてしまいます。
その後の戦局はがらりと変わり、フランス側は、全土のイングランド王家の領地を奪い返し、1066年『ノルマンディー家』による初のイングランド統一王朝の成立以来、四世紀続いた<フランス人>両王家の対立にフランス王家が勝利します。
イングランド王家は、もはや二度と<大陸>に野心を示さなくなり、ブリテン島の経営に専念する様になって、自分達の言葉<フランス語>を捨て、地元の庶民の言葉を宮廷でも使う様になり、<英語>が確立して行くのです。
一方フランスは、彼女の働きにより、各庶民が<祖国>という概念を持つにいたり、精神的国観がヨーロッパでいち早く<近代化>し、その後のヨーロッパ全土に置けるフランスの<優位性>が確立して行くのです。
一世紀後、フランスもイスパニアにやや遅れて<大航海時代>に突入し、北アメリカ大陸に到達し、<ケベック>地方の開発や<セント・ルイス>の建設等と並んで、このオルレアンから旅立った入植者達が開いた町が、『ニュー・オリンズ』で有る事を、付け加えておきます。
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