晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

「時が英雄を生むのか、英雄が時を作るのか」頂点を極めた男の散り際。ナポレオンの生き様(最終回)

2011-06-26 21:23:34 | 歴史と文化
ルイ14世は、77歳で天寿を全うした。

1715年9月8日。
一週間前から、足にけがをして、破傷風を煩った挙げ句の事であった。
けがをしなかったら、もう少し生きたかもしれない。

人生、たかだか50年の時代である。

余りの長寿だった為、彼が崩御した時点で、彼以前から生きていた人間は、フランスには独りも居なかった。
つまり、フランス人の全員が、生まれたときから「ルイ14世」の御代で有った訳だ。

国王崩御の報に接したフランス人は、「悲しみ」よりむしろ、頭上の重しが撮れたかの如く、皆「ほお~っ」とため息をついた、と言われている。


最後まで、全欧で最高の地位を保ったままであった。



ナポレオン1世は、晩節は「絶望」と「反省」と「諦め」と「悔しさ」とが、交錯して居たのでは無かろうか。


全欧が「ポスト・ナポレオン」の枠組み造りに成功せず、いたずらに『会議は踊って』いた。
1815年2月13日、ナポレオンの腹心の政治家の使者がエルバ島を訪れ、「軍を中心に彼を追慕している国民感情」を伝えていた。

機を見て彼は、最初の流刑地から、脱出する。
手勢わずか200名の兵士と、2門の大砲とを持って。

3月1日午後、カンヌから西側に開ける、『ゴルフ・ジュアン』と言う湾に、上陸した。

地元民たちは、当初「不審人物」に警戒感を示すが、例の帽子に気がつき「皇帝陛下」である事が分るや、たちまち「皇帝万歳」の歓声が轟き渡った。

上陸第一声。

「諸君の鷲の旗は、国旗に並び、教会の鐘楼から鐘楼へと飛翔し、パリのノートル・ダム大聖堂へと天翔るでろう。そのときこそ、諸君は諸君が成し遂げるであろう事に、誇りを持つ事となろう。諸君は、祖国の解放者となるのだ」

近隣から多くの人々が参集し、1500名を越える一団となって、進軍を開始する。


目指すはパリ。
劇的なナポレオンの生涯の中でも、最も劇的な二十日間、『鷲の飛翔』は始まるのだった。


ただ、街道筋は王政復古なった新体制を支持する「王党派」が、要所要所を固めて居り、小人数の集団では突破出来ない。

そこで、名高い山岳地の迂回ルートを通って北上する『ナポレオン街道』となる訳である。


地中海は、背後からすぐに山岳地となる。
ゴルフ・ジュアン(ジュアン湾)に開ける「ジュアン・レ・パン」の町を迂回し、カンヌで夜を過ごす。

地図が有れば、拡げてみて欲しい。
マルセイユに注ぐローヌ側に沿って、平地沿いに街道が北上するが、カンヌ周辺からは、北への幹線道路はない。
何故なら、ずっと山岳が続くからである。
今でこそ、しっかりと快適な道路が続くが、当時は道無き道の山越えの連続であった。


翌朝そのまま登り始めて、最初の町が香水で名高い「グラース」。
エルバ島に流される際ここを通りかかり、この町民達が「流刑の皇帝」に辛く当たった為、そこも避けて、迂回し山道を辿り始める。

険しい山越えの連続で、途中ついに大砲も捨てざるを得ない。



そして、「シストロン」で橋を渡らなければならない。
ここが、ナポレオンに取っての最初で最大の関門であった。

この町は、地中海世界「プロヴァンス」と、アルプス山岳地方「ドーフィネ」との境界であり、深く切れ込むデュランス河に架かる橋を見下ろす、切り立った絶壁の上に城塞がそびえる。

橋を渡らなければ城門をくぐれず、城門をくぐらなければ、、町を迂回する道がない以上、進軍はそこで終了となってしまう。


ナポレオンのエルバ島脱出の報を聞いたルイ18世は、彼を「国家反逆者」に指定する勅令を出し、全国の軍に動員令を発していたが、軍は積極的に動こうとしない。

狭い橋を、真上の城塞から町の守備隊が見張っている。

幸い、シストロンの守備隊司令官は、ナポレオンの渡河に、見て見ぬ振りをし、通行を許可する。

ここが、第一の分かれ目。
ここで町の防衛軍に抵抗されたら、ナポレオンの復帰はならなかった。


後は一気呵成にリヨンを目指すのみ。

ところが、グルノーブル近くまでやって来た時に、山間の隘路の小村ラフレーにさしかかった際、そこには王令を受けた「グルノーブル駐屯軍」が待ち構えたいた。

両者向かい合って、長い深い沈黙が続く。

ナポレオンは、馬車から降りて馬に乗り換え、展開する軍のの兵士の前で、さらに馬からも降りる。
そのまま、一人静かに、歩行で近づいて行く。
しっかりした足取りで。

射程距離内である。
一発の弾丸で、彼の波乱の人生には終止符が打たれる。

彼は語りかけた。
「第五歩兵連隊の諸君。君たちの皇帝がここに居る。」

そして、外套の胸元を大きく開いて続ける。
「諸君達の中に、諸君の皇帝を射ちたい者が居れば、ここに居る」

胸元を開いたまま、彼は更に近づいて行く。

一蹴の後。
「皇帝陛下万歳!」
の声が雷鳴の如くに響き渡り、兵士達は隊列を乱して「我らの皇帝」に駆け寄り、殺到した。


ここが、第二の岐路であった。
グルーノーブル駐屯諸隊は、分裂し、多くが皇帝の下に付き従い、その他は司令官と共に逃亡した。


        
        ナポレオンの復帰を確定的にした『ラフレーの隘路』
    
一世一代の名演技が功を奏し、ここで流れが完全にナポレオンへと、向きを変えた。

グルノーブルは、彼を君主として迎える。
彼は、恭順してきた多くの将兵を閲兵した。

リヨンでは、市長主催の歓迎の晩餐会が催された。

各軍の司令官達がたとえ王党派であっても、将兵達が「ルイ18世の兵士」である事より、「ナポレオンの兵士」である事を強く望み、全スランスの軍がナポレオンに帰順する。

ルイ18世は、ベルギーへと亡命。
ここに、ナポレオンの復活が為された。


当時の新聞の見出しが、総てを物語っている。

『コルシカの怪物、ジュアン湾に上陸』
『食人鬼、グラースに向かう』
『王位簒奪者、グルノーブルに入る』
『ボナパルト、リヨン占領』
『ナポレオン、フォンテーヌブローに近づく』

そして最後は。
『皇帝陛下、明日、忠誠なるパリの町にご帰還の予定』

ジャーナリスムの正体は、時と場所とを選ばない。


ここからのナポレオンは、燃え尽きるまでの100日間を、駆け抜けて行く。

しかし。

わずか一年の間に、ヨーロッパの政治バランス、軍事バランスは、変わっていた。
各国の市民達も、夫々のナショナリスムに目覚め、「統一フランス軍」等は、既に過去の夢となっていた。
フランスも、旧体制への改悪に過ぎない『ルイ18世』による王政復古には、最早信頼も希望も見いださず、かといって、以前のナポレオン大戦争当時の再来も、求めていなかった。

イギリスは、早速「対仏大同盟」を復活させ、『ワーテルロー』で最終的な勝利を収める事となる。

その戦いには、数多くの「小さな行き違い」や作戦伝達の「遅れ」や、気象条件など、多くの要素がナポレオンに不利に作用する。


        
        砲弾に貫通された、ナポレオン軍の軍標

彼の復帰は、3ヶ月しか続かなかった。
所謂、百日天下である。


結局18215年、二度目の失脚をしたナポレオンは、大西洋の孤島『セント・へレナ』に流刑となる。

アフリカ海岸から2000キロ、ブラジルの海岸から4500キロ、フランスからは実に8500キロの、絶海の孤島である。


        
        セント・ヘレナ島に上陸したナポレオン


島はイギリス領で、その島を預かる代官は、己の手の中に落ちた「巨人」を、徹底的に虐め抜いた。

小さな家が一軒与えられる。
半径200メートル以上にでる事を厳しく禁止する。
24時間、武装兵士による監視つき。
話しかけられても、彼には一切口をきいてはならない、と厳命されていた。

一族の来島は禁止。
手紙のやり取りも、相手を問わず、一切認められなかった。

流刑から6年を経て、彼は胃の痛みに悩まされる。
激痛。
発作。
嘔吐。
失神。

1821年5月5日。
鷲は地に墜ちた。

食事に少しずつ「ヒ素」が混ぜられた事による中毒死であった事が、近年判明している。
太く短く駆け抜けた、波瀾万丈の人生、享年54歳であった。


彼の死から19年後、ナポレオンは祖国に返還される。
棺がパリに帰還したのは12月15日。

凱旋門の下で、国葬が営まれた。


        
        今日の『エトワールの凱旋門』は第一次世界大戦の無名戦士の墓
        も、真下に置かれている


頂上から見下ろすと、シャンゼリゼ通りの遥か突き当たりが『ルーブル宮』で、その中庭に、彼が造らせたもう一つの凱旋門『カルーゼルの凱旋門』がある。

両方とも、1805年の『オーステルリッツの戦い』の勝利を祝って、造られた物である。


        
        突き当たりが、カルーゼルの凱旋門のある、ルーブルの中庭


国葬の後、ナポレオンは、ルイ14世が造った「負傷兵の為の病院と養老院」である『アンバリッド』の、サン・ルイ教会に公式に安置される。


        
        アンヴァリド全景


        
        アンヴァリッドの王室サン・ルイ教会


『フランスの皇帝』の、祖国への帰還を祝して、時のスエーデン国王によって寄贈された、スカンジナヴィア特産の赤い御影石で造られ他、見事な墓石がドームの真下に置かれて居る。


        
        皇帝ナポレオン1世の墓


ちなみに、彼の墓碑の周りの遊歩廊に、息子『ローマ王ナポレオン2世』の墓も有る。


        
        大理石の床に刻まれた、『ナポレオン2世、ローマ王の墓』


「皇帝」の資格として、イタリア王を名乗れる。
ナポレオンは、息子に『ローマ王』と言うタイトルを与えた。

彼は、母親に連れられて幼くしてウイーンに去っていたが、父皇帝の流刑と、フランス人のナポレオンへの愛情、「皇帝待望論」を聞き、フランス行きを強く望む。


しかし、祖父オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフは、彼を行かせない。

父親の二の舞を踏ませたく無かった。
そして、2世を担いでのフランスの高揚には、ヨーロッパは堪えられないと思った。

ナポレオン2世は、失意のうちに若くしてこの世を去る。

享年21歳。
ウイーンの宮廷で浮き名を流す母親を疎んじながらの、無念の夭逝であった。


鷲は地に墜ちた。

敗軍の将は、栄光は奪われる。
ほとんどの記録は、勝者イギリス、及びその同盟者ドイツ、オーストリとロシアの文書によって、後世に伝えられた。

あまりにも多くの使者を出した大戦争を継続したが故、「食人鬼」「コルシカの悪魔」「人生の浪費者」等と蔑視されている。


しかし、彼の生涯をかけた戦いによって、フランス革命の精神がヨーロッパ各地にもたらされ、「国民国家意識」が誕生し、近代的国家観、国民観が成立する。

ナポレオン法典は、現代まで諸国の法体系の規範となっている。

地球の子午線の長さを算定し、『メートル法』を確立した。

近代的学校教育制度も造り上げる。

道路の右側通行も。

考古学も。

近代的勲章制度も。


        
        レジオン・ドヌール勲章、最高位勲章


ナポレオンは、ヨーロッパの近代化の牽引車であり、時代を造り上げた寵児であった。

あの時代が、彼を必要としていた。
彼も、あの時代で有ったから、存在出来たのだ。


英雄は、時代と共に有る。


そして、今こそ日本にも、英雄が求められているのでは無いだろうか。

現代に即した形での、強烈な個性と、的確な判断力と、強力な指導力と、確実な実行力とを合わせを持った、英雄が求められていると、私は思う。

そうでないと、日本に明日は来ないかもしれない。





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