《事の原因を知ったので、付け加えて再送します》
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鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)の、恐るべきアホさ加減は昨今のニュースを増々にぎわせている。
が、ちゃんとした事も言った!
▶<ブログ市長>抗議の県議に反論、「言葉制限で文化しぼむ」(見出し)
>鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が18日、障害者への差別的記述に対する抗議に訪れた障害がある熊本県議らに対し「『めくら千人、めあき千人』との言い回しがあるが、どう言えばいいのか」と差別用語を持ち出して反論していたことが、関係者への取材で分かった。
障害がある全国の議員らでつくる「障害者の政治参加をすすめるネットワーク」(入部香代子代表、30人)。平野みどり熊本県議(51)ら3議員が18日正午過ぎ、車椅子で訪問し竹原市長と非公開で面会した。
>出席した村上博・熊本市議(59)によると、平野県議が「差別するつもりはなくても、相手が傷つけば差別になる」と指摘。これにに対し、市長は「それでは『めくら千人、めあき千人』との言い回しがあるが、どう言えばいいのか。言葉を制限すると文化がしぼむ」などと持論を展開した。また、平野県議が「『視覚障害者』と言うべきだ」などと言うと「そういうふうに言うんですか」と答えたという。
>「めくら千人……」は「世の中には道理の分かる人もいるが、分からない人もいる」という意味で差別的表現とされる。08年9月27日付のブログで、市長は「過剰に反応している方がおいでのようだ」とし、差別的表現でないとする一文を引用していた。
また、批判を招いた11月8日付の「差別的記述」について市長は県議らに「意図がはっきり分かる表現に修正します」と約束したが、謝罪要求には「政治家がこの問題に触れることがタブーになる」などと繰り返し拒否の姿勢は崩さなかった。
【毎日新聞】
またまたトンチンカンな事を、しかも<障害者>自身が言い出すとは。
「めくら千人、めあき千人」を『視覚障害者千人、視覚健常者千人』と言い換えれば<傷つかない>とでも言うのだろうか?
後の言い方の方が、よっぽど<差別感>が大きい様に思える。
拙ブログで何度かこの問題を取り上げたが、<言葉狩り>は『障害者』『健常者』とを問わず、<差別意識>を持っている者から出てくる様だ。
はっきり言って、障害者側に<被害者意識過剰>になる時が有る。
裏返して言えば、時には<特権者意識>を持つ障害者すら、見受けられる。
もちろん、世の中には<差別意識>はあちこちに数多く存在している事は、事実である。
それらの問題は、一に掛かって<教育>の欠如であろう。
これらの事柄は、学校での教育の問題ではなく、<家庭>での教育の欠如の問題であり、<社会>に置ける教育環境の欠如の結果の問題である。
私は、差別を助長する訳ではもちろん無い。
私自身は、いかなる<ハンディキャップ>を持つ人にも、いかなる特別視もしない。
皆一緒。
その場その場で身体的に不利な状況に置かれている<ハンディの有る人>には、それなりの配慮はします。
電車で席も譲るし、その場で必要とされる手助けもする。
しかし、その人が<自力で>対処出来ている分には、手も差し延べないし、特別扱いもしない。
過剰に<特別扱い>をする事自体が<差別>だと思っている。
<双方>に<差別意識><被害意識>が有るから、ギクシャクするのです。
上記の「・・・千人」の表現は、落ち着いて考えてみると、<視覚>に関する<身体的ハンデ>を直接さしている様には感じ取れない。
あくまで「こんな事もワカランのか・・・」と言ったニュアンスが伝わってくる。
しかし、<視覚障害者>は<こんな事も分からんのか>とは、どこにも言ってない。
これらは、『日本語』の持つ<広く豊かな>表現方法の一つで有る。
ここフランスでも、視覚障害者に対しては、最近<NON-VOYANT=見えない人>という言い方をする様になった。
「無視覚者」という様な表現、とでも言えましょうか。
ここには、全くニュートラルで、どこにも<身体的>なニュアンスは出て来ない。
しかしフランスでも、<やみくもに>とか<偏った視点で>とか、様々なケースに置いて「めくらの様に」という言い方はごく普通に使われているのです。
考えても見て下さい。
「視覚障害者のように一直線に突っ込んで・・・」などと言って、どんな感じになるか。
これらは、歴史的に醸されてきた言語学的可能性の問題に関わっている訳ですよ。
この記事の<熊本県議>の方も、自らが自らに逆の意味での<差別意識>を持っていらっしゃる様に、お見受けする。
この<団体>が『阿久根市町』に抗議にお出かけになったきっかけが、いかなる<表現>であったのかは知りません。
しかし、少なくとも当の市長がそのとき答えて言った事は、その点において<正しい>と思う。
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【追加】
▶阿久根市長、「ブログ修正」約束の席で差別語(見出し)
>鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が障害者の出生を否定するような文章を自身のブログに掲載した問題で、竹原市長は18日、障害者の地方議員ら3人と面会し、文章の修正に応じる意向を示した。
>鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が、ブログに障害者の出生を否定するような文章を掲載した問題で、市長が18日、ブログの修正に応じる考えを示したことについて、障害者団体や市民からは「修正だけでは済まない問題」「なぜ謝罪しないのか」と不満の声が挙がった。
【読売新聞】
上記の経緯を、把握しておりませんでした。
ニュースのタイトルは目にしていた物の、鬱陶しそうであった為、読んでいなかったのです。
事の成り行きは理解しました。
全面的に<阿久根市長>に攻められる点があり、何の不思議も無い。
熊本県議の方々の<抗議>は至極当然であります。
ただ、私が言わんとする事は、それとは次元が違う事なのです。
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<言葉狩り>は、文化を潰してしまう。
筒井康隆先生の抗議断筆の例を見るまでもない事だ。
拙ブログで繰り返してきたが、<言葉自体>には何の罪も無い。
<差別>は、その言葉を使う<人間>の側にある。
かといって、「差別するつもりはなくても、相手が傷つけば差別になる」という言い方は、時には危険でもあるのだ。
この点は非常に微妙なのですが、ある種<セクハラ>論議と相通ずる所も有る様な。。。
同じ言動が、当の男が相手の女性に<ポジティヴ>に思われていれば<愛情表現>になり、<ネガティヴ>に思われている男からだと<セクハラ>となる。
脇道にそれたが、社会から<差別意識>をなくす<別の運動>をする事が必要であって、具体的な表現や言葉をいちいち否定するべきでは無いと思うのです。
もちろん、今回の<熊本県議団>の抗議行動は、『阿久根市町』の<差別意識>に対してなされたのでありましょうが、何かどこかが少しずれている気がしてなりません。
それにしても、この市長、どうしようもない人ですね。
市議会に置ける2度の不信任案可決の挙げ句の<再選>と言うからには、『阿久根市』には、第三者の与り知らぬ、何か特別の<利益>でも、市にもたらしているのですかね?
市長にお願い致したい。
お亡くなりになった際は、是非<献体>して下さい。
特別なメカニスムの思考形態を持つ貴方の<脳>を、研究対象にするべきでしょう。
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鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)の、恐るべきアホさ加減は昨今のニュースを増々にぎわせている。
が、ちゃんとした事も言った!
▶<ブログ市長>抗議の県議に反論、「言葉制限で文化しぼむ」(見出し)
>鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が18日、障害者への差別的記述に対する抗議に訪れた障害がある熊本県議らに対し「『めくら千人、めあき千人』との言い回しがあるが、どう言えばいいのか」と差別用語を持ち出して反論していたことが、関係者への取材で分かった。
障害がある全国の議員らでつくる「障害者の政治参加をすすめるネットワーク」(入部香代子代表、30人)。平野みどり熊本県議(51)ら3議員が18日正午過ぎ、車椅子で訪問し竹原市長と非公開で面会した。
>出席した村上博・熊本市議(59)によると、平野県議が「差別するつもりはなくても、相手が傷つけば差別になる」と指摘。これにに対し、市長は「それでは『めくら千人、めあき千人』との言い回しがあるが、どう言えばいいのか。言葉を制限すると文化がしぼむ」などと持論を展開した。また、平野県議が「『視覚障害者』と言うべきだ」などと言うと「そういうふうに言うんですか」と答えたという。
>「めくら千人……」は「世の中には道理の分かる人もいるが、分からない人もいる」という意味で差別的表現とされる。08年9月27日付のブログで、市長は「過剰に反応している方がおいでのようだ」とし、差別的表現でないとする一文を引用していた。
また、批判を招いた11月8日付の「差別的記述」について市長は県議らに「意図がはっきり分かる表現に修正します」と約束したが、謝罪要求には「政治家がこの問題に触れることがタブーになる」などと繰り返し拒否の姿勢は崩さなかった。
【毎日新聞】
またまたトンチンカンな事を、しかも<障害者>自身が言い出すとは。
「めくら千人、めあき千人」を『視覚障害者千人、視覚健常者千人』と言い換えれば<傷つかない>とでも言うのだろうか?
後の言い方の方が、よっぽど<差別感>が大きい様に思える。
拙ブログで何度かこの問題を取り上げたが、<言葉狩り>は『障害者』『健常者』とを問わず、<差別意識>を持っている者から出てくる様だ。
はっきり言って、障害者側に<被害者意識過剰>になる時が有る。
裏返して言えば、時には<特権者意識>を持つ障害者すら、見受けられる。
もちろん、世の中には<差別意識>はあちこちに数多く存在している事は、事実である。
それらの問題は、一に掛かって<教育>の欠如であろう。
これらの事柄は、学校での教育の問題ではなく、<家庭>での教育の欠如の問題であり、<社会>に置ける教育環境の欠如の結果の問題である。
私は、差別を助長する訳ではもちろん無い。
私自身は、いかなる<ハンディキャップ>を持つ人にも、いかなる特別視もしない。
皆一緒。
その場その場で身体的に不利な状況に置かれている<ハンディの有る人>には、それなりの配慮はします。
電車で席も譲るし、その場で必要とされる手助けもする。
しかし、その人が<自力で>対処出来ている分には、手も差し延べないし、特別扱いもしない。
過剰に<特別扱い>をする事自体が<差別>だと思っている。
<双方>に<差別意識><被害意識>が有るから、ギクシャクするのです。
上記の「・・・千人」の表現は、落ち着いて考えてみると、<視覚>に関する<身体的ハンデ>を直接さしている様には感じ取れない。
あくまで「こんな事もワカランのか・・・」と言ったニュアンスが伝わってくる。
しかし、<視覚障害者>は<こんな事も分からんのか>とは、どこにも言ってない。
これらは、『日本語』の持つ<広く豊かな>表現方法の一つで有る。
ここフランスでも、視覚障害者に対しては、最近<NON-VOYANT=見えない人>という言い方をする様になった。
「無視覚者」という様な表現、とでも言えましょうか。
ここには、全くニュートラルで、どこにも<身体的>なニュアンスは出て来ない。
しかしフランスでも、<やみくもに>とか<偏った視点で>とか、様々なケースに置いて「めくらの様に」という言い方はごく普通に使われているのです。
考えても見て下さい。
「視覚障害者のように一直線に突っ込んで・・・」などと言って、どんな感じになるか。
これらは、歴史的に醸されてきた言語学的可能性の問題に関わっている訳ですよ。
この記事の<熊本県議>の方も、自らが自らに逆の意味での<差別意識>を持っていらっしゃる様に、お見受けする。
この<団体>が『阿久根市町』に抗議にお出かけになったきっかけが、いかなる<表現>であったのかは知りません。
しかし、少なくとも当の市長がそのとき答えて言った事は、その点において<正しい>と思う。
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【追加】
▶阿久根市長、「ブログ修正」約束の席で差別語(見出し)
>鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が障害者の出生を否定するような文章を自身のブログに掲載した問題で、竹原市長は18日、障害者の地方議員ら3人と面会し、文章の修正に応じる意向を示した。
>鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が、ブログに障害者の出生を否定するような文章を掲載した問題で、市長が18日、ブログの修正に応じる考えを示したことについて、障害者団体や市民からは「修正だけでは済まない問題」「なぜ謝罪しないのか」と不満の声が挙がった。
【読売新聞】
上記の経緯を、把握しておりませんでした。
ニュースのタイトルは目にしていた物の、鬱陶しそうであった為、読んでいなかったのです。
事の成り行きは理解しました。
全面的に<阿久根市長>に攻められる点があり、何の不思議も無い。
熊本県議の方々の<抗議>は至極当然であります。
ただ、私が言わんとする事は、それとは次元が違う事なのです。
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<言葉狩り>は、文化を潰してしまう。
筒井康隆先生の抗議断筆の例を見るまでもない事だ。
拙ブログで繰り返してきたが、<言葉自体>には何の罪も無い。
<差別>は、その言葉を使う<人間>の側にある。
かといって、「差別するつもりはなくても、相手が傷つけば差別になる」という言い方は、時には危険でもあるのだ。
この点は非常に微妙なのですが、ある種<セクハラ>論議と相通ずる所も有る様な。。。
同じ言動が、当の男が相手の女性に<ポジティヴ>に思われていれば<愛情表現>になり、<ネガティヴ>に思われている男からだと<セクハラ>となる。
脇道にそれたが、社会から<差別意識>をなくす<別の運動>をする事が必要であって、具体的な表現や言葉をいちいち否定するべきでは無いと思うのです。
もちろん、今回の<熊本県議団>の抗議行動は、『阿久根市町』の<差別意識>に対してなされたのでありましょうが、何かどこかが少しずれている気がしてなりません。
それにしても、この市長、どうしようもない人ですね。
市議会に置ける2度の不信任案可決の挙げ句の<再選>と言うからには、『阿久根市』には、第三者の与り知らぬ、何か特別の<利益>でも、市にもたらしているのですかね?
市長にお願い致したい。
お亡くなりになった際は、是非<献体>して下さい。
特別なメカニスムの思考形態を持つ貴方の<脳>を、研究対象にするべきでしょう。
でも 議会中に ガムをかんだ 仲川げん市長よりは ましかな。
スゴい人ですね。
私は<共産主義>は完全否定しますが、日本共産党は、かわいいじゃありませんか。。。
ただ、公人は自ら発する言葉について自制が必要だと思いませんか?
研究者・言論人ならばともかく、あえて、人を傷つける可能性のある言葉を使うことは適当ではないと思います。
つまり、今回の竹原市長の発言は「言葉狩り」の議論とは別の次元だと思うのです。
特別なメカニスムの思考形態を持つ貴方の<脳を、研究対象にするべきでしょう。
今回の文章の趣旨とは異なりますが、献体の事です。
私の花は40年ほど前に献体の申し込みをしました。当時は解剖実習用の死体が不足していて、その事を伝える啓発記事が新聞雑誌によく出ていたものです。私の母はそれを知って申し込みました(献体もすみました)。
12~3年前に、献体すれば死後の始末を一切大学のほうでやってくれるので、家族に葬儀などの面倒をかけることがないと考えて、大学に献体を申し込みましたら見事に断られました。申し込み殺到で受付の補欠の補欠と言うほどだそうでした。現在は申し込みみはもっと殺到している事でしょう。
母が献体申し込みした後20年以上も経過すると、日本人の意識もだいぶ変わって、献体に抵抗を持つ人が減少したらしいのが原因のようですが、そればかりではなくて私と同様に死後の争議を初めとする面倒な事を嫌う人が増加した事もあずかっているようです。
阿久根市長の死後献体で脳を研究対象にするというのならそれこそ脳研究用に申し込めばよいと存じます。それならすぐにでも承知してくれそうです。
なるほど、<献体>の実際は、そのようになっていたのですか。
市長を揶揄するつもりで書いたのですが、新たな論点が生じている訳ですね。