精神科医の中井久夫さんの「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」という論文(『分裂病と人類』所収)を読みました。一年ほど前にも読んでいたのですが、思うところがあって再読。前回よりも面白く読めました。
元々僕はいろんな本を読むよりも同じ本を何度も読むほうがしっくりきます。中谷彰宏さんが「人間ってそんなにインプットを増やせないんですよ」と言っていたけれど、分かる気がする。思考回路というのは一度にたくさん持てないし、自分の持っている思考回路に合わせて情報を入れようとすると、どうしても自分に‘合う’情報に接するのがスムーズに行きます。
ただ、その‘合う’情報の種類も時によって自然に変化したりして、ゆっくりとその人の視野というのは変わるというものだと思う。
一度に色んな考え方をするのは無理があるし、ずっと考え方が変わらないというのも寂しい。
この二つの論文で中井さんは、「分裂病親和者」と「執着気質的倫理」の二つの人間類型を対比して、その時々の社会の特徴を述べています。
「分裂病親和者」とは、本来狩猟社会において顕著に見られた人間類型。中井さんはこれを徴候空間=微分(回路)的認知として特徴づけている。
微分も積分も僕は分からないけど、おそらくこれは、自分の眼前に広がるわずかな世界の動きから一挙に世界全体・将来における世界の動きを察知・予測してしまう能力です。
この能力が狩猟社会で発達した理由は、確実性の少ない荒野の中で獲物を認知し・また肉食動物の攻撃から身を守るには、視界の中の僅かな動き・音・臭いから動物の存在を察知する必要があるからです。それは「変化の傾向を予測的に把握し、将来発生する動作に対して予防的対策を講じるのに用いられる」能力です。
私たちから見ればまるで超能力ですが、しかしこれはそれほど万能ではありません。たしかにこれは世界の動きを瞬時に察知できる機能ですが、持続的には使えないからです。
中井さんがこれを「微分的認知」というのは、この能力はつねに t≒0 において機能する働きだからです。
微分的認知は自然の動きなど自分の外部や思考や情動など内部の事象を認知して入力して相手の傾向を把握します。しかしこの“現実吟味力”は持続的には機能せず、その場その場での“危機”の際にしか作動しません。
微分的認知においては出力(=現実の予測」)が入力(=「徴候の察知」)に上手く対応するのは t=0 付近だけで、「時が経つにつれて出力は入力に追随できず、すぐ頭打ちとなり漸次低下」します。
この「ある程度以上の増幅」に弱いという微分的認知の特性により、分裂病親和者には「過度の厳密さを追求して t=0 における完全微分を求めようとすると相手の初動にふりまわされて全く認知不能になる」傾向があります。
この「過度の厳密さの追求」というのは、予測という能力を持続的に求めることですが、元々不確実さの中で危機の時にのみ働く能力を持続的に求めようとすることで、逆に世界を正確に把握する能力が失われることになります。
このことは、おそらく「分裂病」という呼び名は適切ではなく、むしろ「統合」を過度に追求する時にその病気は起こるという精神科医たちの主張と対応しています。つまり分裂病者とは、普通の人以上に世界を統一的に把握する性向が強い人のことを言うからです。
わたしたちから見ると、それでは狩猟社会では誰もが分裂病者だったのではないかと思いたくなりますが、しかし狩猟社会では食料・富の蓄積が必要以上に行われることはありません。その社会ではつねに必要の範囲で狩猟が行われるため、危機のときにのみ発揮される微分的認知が発達すればそれでよく、持続的な生産活動を行うような能力は人間には必要とされず、よって「過度の厳密さの追求」によって人々が振り回されることもありませんでした。
狩猟採集社会とは「過度の厳密さの追求」のない社会であり、それは不必要な富の追求のない社会であることを意味します。
社会学者のアンソニー・ギデンズは、狩猟採集社会の特徴を次のように述べています。
「共同体の成員間に富の差がほとんど存在しないように、権力の差も、もっと規模の大きな社会類型に比べ、はるかに小さい。狩猟採集社会は、普通、「直接参加制」である――重要な決定を下したり、集団が危機に瀕したときに、男性の大人成員をすべて召集していく傾向がある」
また、その社会の人々の生活と現代人の生活との差異を次のように際立たせている。
「著名な人類学者マーシャル・サーリンズは、狩猟採集社会を「最初の豊かな社会」と呼んでいる。狩猟民や採集民は、自分たちの要求を十分まかなう以上のものを得ていたからである。もっと快適な地域に居住していた過去の狩猟民や採集民は、一日の大半を「生産活動に従事して」過ごす必要などなかった。多くの人は、工場や事務所で働いている現代の雇用労働者よりも短い時間しか、おそらく一日当たり平均数時間しか働かなかった」
「狩猟民や採集民は、自分たちの基本的欲求を満たすのに必要とする以上の物質的富を生み出すことには、ほとんど何の関心も示さない。狩猟民や採集民がもっぱら没頭するのは、普通、宗教的価値であり、また儀式や儀礼活動である」
「狩猟採集社会はほとんどが非好戦的な社会のように思える。狩猟に用いる道具が他の人々に対する武器として使用されることは稀である。集団間で衝突が生ずる場合もあるが、極めて限定された衝突であり、死傷者はほとんど出なかった。近代的意味での戦闘行為は、狩猟民や採集民の間ではまったく未知のことがらであった。なぜなら、狩猟民や採集民には専門の戦士がいないからである。狩猟は、それ自体が重要な意味をもった協働活動である。人々は狩に一人で出かけても、狩の獲物を―たとえば、野生豚や猪の肉を―ほとんどつねに集団の残りの人と分け合っている」
(『社会学』第3版 p.72-75)
ギデンズは、このような狩猟採集社会の、競争がない点・富と権力に大きな不平等がない点・さらに競争よりも協働が強調される点はすべて、近現代の工業文明が創り出して来た世界を必ずしも「進歩」と同一視できないことを示していると述べます。
微分的認知とは、それ自体が「病気」を意味するものではありません。むしろ、その機能が持続的に作動されるよう圧力がかかるときに、それは世界観の統合に失敗し、「分裂病」「統合失調症」となります。そのような圧力がかかるのは、当然ながら、富の蓄積が「過度」に求められる社会です。
中井さんは、「分裂病者」とは、自身が有している微分的認知の能力が社会の要請と上手くかみ合わなかったために、現実認識の失調をきたした人々だと述べています。彼らはわずかな世界の動きを察知する能力に恵まれると同時に、世俗の欲には無頓着で本来であれば生命の危機の際にのみ予知能力を発動させそれ以外には自己保身のために動き回るということをしません。しかし、そうした受身的な態度のゆえに、社会の圧力に振り回されます。
この「分裂病者」と対比されるのが、当然のごとく「執着気質者」です。これは図式的に言えば農耕社会でもてはやされる特徴であり、農耕において必要な持続的な計算・予測の能力を備えています。
彼らには分裂病者のように世界の動きを一挙に把握する能力はありません。その代わりに、与えられた尺度を用い、自身が動ける範囲で生産を計算していきます。これは与えられた尺度・価値観・社会の規範への過度の依存ですが、この依存により執着気質者は農耕社会において「自立した人間」として社会的に認知されます。尺度は社会から与えられたものですが、その尺度に則って行く能力により身を立てることで、彼はアイデンティティを確立します。
中井さんはこの執着気質を、「建設の倫理」ではなく「復興の倫理」であると指摘します。
執着気質者には、自ら新しい社会を構築する能力・一から新しいものをデザインするような意欲をもちません。むしろ既存の社会の尺度に物事を合わせていきます。ここに中井さんは、執着気質の特徴を、「とりかえしをつけよう」という言葉の実行にあると述べます。
つまり彼にとって行動の原動力となるのは、社会から与えられた規範であり、彼らはその規範から外れた物事を規範に合わせることで安心を得ようとします。このような規範を確立したものとして提示できるのは、決められた生産高が設定可能な農耕社会以後の社会であり、つねに自然の変動に左右される狩猟採集社会ではありません。狩猟採集社会とは完全には予測できない社会の動きから一片の徴候だけを頼りに行動する社会ですが、農耕社会は以前では予測できなかった自然を「暴力的」に自らの力で押さえつけようとする努力です。それにより人類は、自然に依存しない自立した存在と成り上がることになります。
農耕社会とは、自然という神を人間自身の腕で押さえつけようとする動きです。そのとき初めて人類は、自立した存在となると共に、自らが自然の主を追放したという罪悪感を抱え込むことになりました。この罪悪感が、自らの行為を赦そうとする浄化の儀式へとつながり、神への信仰・宗教の発生へとつながります。中井さんは、狩猟社会では一般的に宗教が見られないことを指摘します。
執着気質者は、自然・神への罪悪感と自立意識を有し、それゆえ自ら自由に発想する余裕を持たず、ひたすら既存の尺度に合わせた行動を取ります。彼らは自身の罪悪感を否認することに躍起になり、それゆえひたすら攻撃的に尺度・規範に合わせて行動することで罪悪感を忘却しようとします。自然への依存を放棄したのですが、それに罪責の念を持つため、自ら新しい尺度を作る余裕を持ちません。それゆえ彼らは本当には自立せず、何かに依存しなければなりません。その新しい依存の対象が農耕において特徴的な生産高の計算であり、そこには意味が消失した「計算可能性」が追求されることになります。
この執着的生産活動が顕著に見られた時代の一つが、戦後の経済先進国であり、日本です。農耕社会の計算への執着はそのまま工業社会に受け継がれ、執着・依存する規範が強化された社会を生み出しました。
社会学者のマックス・ヴェーバーは、資本主義の精神の原型としてプロテスタンティズムの倫理を挙げましたが、宗教的精神による経済活動の促進というヴェーバーの図式を、おそらく中井さんは応用したのでしょう。神への罪責感は「自立」の意識と結びついており、それは既存社会の価値規範への過度の適応(=依存)を促します。
ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、宗教的規範への依存と経済活動への執着が一体となっていた時代はほんの一時期のことであり、一度資本蓄積活動が軌道に乗ると、元来経済人が持っていた宗教的エートスは失われ、資本蓄積活動それ自体が自己目的化したと末尾で触れています(この本は、マルクスの経済分析を行為者の内面から見つめようとしたように読めます)。
それと同じように中井さんも、執着的気質により戦後の高度成長を達成した日本の末路を、この書が出版された1982年に次のように述べています。
「高度成長を支えた者のかなりの部分が執着気質的職業倫理であるとしても、高度成長の進行と共に、執着気質者の、より心理的に拘束された者から順に取り残され、さらに高度成長の終末期には倫理そのものが目的喪失によって空洞化を起こしてきた。
著者はこの時期に、そのあとに来るものはあるいは、より陶酔的・自己破壊的・投機的なものではないかというそれをのべたが、それは一時期、現実のものとなったようである。
二宮の仕法のごとく、利潤を分配することなく、その享受のレベルを抑えて設備投資に再投下する積小為大の企業版は、欧米企業の職業倫理上、決してなしえないところであるが、その果てに利潤を土地に投機しはじめた。それは目的喪失による行為というのみでなく、一つの自己破壊行為でありうると思われる。なぜならば、他方に執着気質的職業倫理にもとづく努力によって企業を富ましうる多数者が同じ倫理にもとづく貯蓄によってこの高価な土地を購入しなければ、それは私物と化するという矛盾がある」(69頁)。
(「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」中井久夫(著) 2に続く)
元々僕はいろんな本を読むよりも同じ本を何度も読むほうがしっくりきます。中谷彰宏さんが「人間ってそんなにインプットを増やせないんですよ」と言っていたけれど、分かる気がする。思考回路というのは一度にたくさん持てないし、自分の持っている思考回路に合わせて情報を入れようとすると、どうしても自分に‘合う’情報に接するのがスムーズに行きます。
ただ、その‘合う’情報の種類も時によって自然に変化したりして、ゆっくりとその人の視野というのは変わるというものだと思う。
一度に色んな考え方をするのは無理があるし、ずっと考え方が変わらないというのも寂しい。
この二つの論文で中井さんは、「分裂病親和者」と「執着気質的倫理」の二つの人間類型を対比して、その時々の社会の特徴を述べています。
「分裂病親和者」とは、本来狩猟社会において顕著に見られた人間類型。中井さんはこれを徴候空間=微分(回路)的認知として特徴づけている。
微分も積分も僕は分からないけど、おそらくこれは、自分の眼前に広がるわずかな世界の動きから一挙に世界全体・将来における世界の動きを察知・予測してしまう能力です。
この能力が狩猟社会で発達した理由は、確実性の少ない荒野の中で獲物を認知し・また肉食動物の攻撃から身を守るには、視界の中の僅かな動き・音・臭いから動物の存在を察知する必要があるからです。それは「変化の傾向を予測的に把握し、将来発生する動作に対して予防的対策を講じるのに用いられる」能力です。
私たちから見ればまるで超能力ですが、しかしこれはそれほど万能ではありません。たしかにこれは世界の動きを瞬時に察知できる機能ですが、持続的には使えないからです。
中井さんがこれを「微分的認知」というのは、この能力はつねに t≒0 において機能する働きだからです。
微分的認知は自然の動きなど自分の外部や思考や情動など内部の事象を認知して入力して相手の傾向を把握します。しかしこの“現実吟味力”は持続的には機能せず、その場その場での“危機”の際にしか作動しません。
微分的認知においては出力(=現実の予測」)が入力(=「徴候の察知」)に上手く対応するのは t=0 付近だけで、「時が経つにつれて出力は入力に追随できず、すぐ頭打ちとなり漸次低下」します。
この「ある程度以上の増幅」に弱いという微分的認知の特性により、分裂病親和者には「過度の厳密さを追求して t=0 における完全微分を求めようとすると相手の初動にふりまわされて全く認知不能になる」傾向があります。
この「過度の厳密さの追求」というのは、予測という能力を持続的に求めることですが、元々不確実さの中で危機の時にのみ働く能力を持続的に求めようとすることで、逆に世界を正確に把握する能力が失われることになります。
このことは、おそらく「分裂病」という呼び名は適切ではなく、むしろ「統合」を過度に追求する時にその病気は起こるという精神科医たちの主張と対応しています。つまり分裂病者とは、普通の人以上に世界を統一的に把握する性向が強い人のことを言うからです。
わたしたちから見ると、それでは狩猟社会では誰もが分裂病者だったのではないかと思いたくなりますが、しかし狩猟社会では食料・富の蓄積が必要以上に行われることはありません。その社会ではつねに必要の範囲で狩猟が行われるため、危機のときにのみ発揮される微分的認知が発達すればそれでよく、持続的な生産活動を行うような能力は人間には必要とされず、よって「過度の厳密さの追求」によって人々が振り回されることもありませんでした。
狩猟採集社会とは「過度の厳密さの追求」のない社会であり、それは不必要な富の追求のない社会であることを意味します。
社会学者のアンソニー・ギデンズは、狩猟採集社会の特徴を次のように述べています。
「共同体の成員間に富の差がほとんど存在しないように、権力の差も、もっと規模の大きな社会類型に比べ、はるかに小さい。狩猟採集社会は、普通、「直接参加制」である――重要な決定を下したり、集団が危機に瀕したときに、男性の大人成員をすべて召集していく傾向がある」
また、その社会の人々の生活と現代人の生活との差異を次のように際立たせている。
「著名な人類学者マーシャル・サーリンズは、狩猟採集社会を「最初の豊かな社会」と呼んでいる。狩猟民や採集民は、自分たちの要求を十分まかなう以上のものを得ていたからである。もっと快適な地域に居住していた過去の狩猟民や採集民は、一日の大半を「生産活動に従事して」過ごす必要などなかった。多くの人は、工場や事務所で働いている現代の雇用労働者よりも短い時間しか、おそらく一日当たり平均数時間しか働かなかった」
「狩猟民や採集民は、自分たちの基本的欲求を満たすのに必要とする以上の物質的富を生み出すことには、ほとんど何の関心も示さない。狩猟民や採集民がもっぱら没頭するのは、普通、宗教的価値であり、また儀式や儀礼活動である」
「狩猟採集社会はほとんどが非好戦的な社会のように思える。狩猟に用いる道具が他の人々に対する武器として使用されることは稀である。集団間で衝突が生ずる場合もあるが、極めて限定された衝突であり、死傷者はほとんど出なかった。近代的意味での戦闘行為は、狩猟民や採集民の間ではまったく未知のことがらであった。なぜなら、狩猟民や採集民には専門の戦士がいないからである。狩猟は、それ自体が重要な意味をもった協働活動である。人々は狩に一人で出かけても、狩の獲物を―たとえば、野生豚や猪の肉を―ほとんどつねに集団の残りの人と分け合っている」
(『社会学』第3版 p.72-75)
ギデンズは、このような狩猟採集社会の、競争がない点・富と権力に大きな不平等がない点・さらに競争よりも協働が強調される点はすべて、近現代の工業文明が創り出して来た世界を必ずしも「進歩」と同一視できないことを示していると述べます。
微分的認知とは、それ自体が「病気」を意味するものではありません。むしろ、その機能が持続的に作動されるよう圧力がかかるときに、それは世界観の統合に失敗し、「分裂病」「統合失調症」となります。そのような圧力がかかるのは、当然ながら、富の蓄積が「過度」に求められる社会です。
中井さんは、「分裂病者」とは、自身が有している微分的認知の能力が社会の要請と上手くかみ合わなかったために、現実認識の失調をきたした人々だと述べています。彼らはわずかな世界の動きを察知する能力に恵まれると同時に、世俗の欲には無頓着で本来であれば生命の危機の際にのみ予知能力を発動させそれ以外には自己保身のために動き回るということをしません。しかし、そうした受身的な態度のゆえに、社会の圧力に振り回されます。
この「分裂病者」と対比されるのが、当然のごとく「執着気質者」です。これは図式的に言えば農耕社会でもてはやされる特徴であり、農耕において必要な持続的な計算・予測の能力を備えています。
彼らには分裂病者のように世界の動きを一挙に把握する能力はありません。その代わりに、与えられた尺度を用い、自身が動ける範囲で生産を計算していきます。これは与えられた尺度・価値観・社会の規範への過度の依存ですが、この依存により執着気質者は農耕社会において「自立した人間」として社会的に認知されます。尺度は社会から与えられたものですが、その尺度に則って行く能力により身を立てることで、彼はアイデンティティを確立します。
中井さんはこの執着気質を、「建設の倫理」ではなく「復興の倫理」であると指摘します。
執着気質者には、自ら新しい社会を構築する能力・一から新しいものをデザインするような意欲をもちません。むしろ既存の社会の尺度に物事を合わせていきます。ここに中井さんは、執着気質の特徴を、「とりかえしをつけよう」という言葉の実行にあると述べます。
つまり彼にとって行動の原動力となるのは、社会から与えられた規範であり、彼らはその規範から外れた物事を規範に合わせることで安心を得ようとします。このような規範を確立したものとして提示できるのは、決められた生産高が設定可能な農耕社会以後の社会であり、つねに自然の変動に左右される狩猟採集社会ではありません。狩猟採集社会とは完全には予測できない社会の動きから一片の徴候だけを頼りに行動する社会ですが、農耕社会は以前では予測できなかった自然を「暴力的」に自らの力で押さえつけようとする努力です。それにより人類は、自然に依存しない自立した存在と成り上がることになります。
農耕社会とは、自然という神を人間自身の腕で押さえつけようとする動きです。そのとき初めて人類は、自立した存在となると共に、自らが自然の主を追放したという罪悪感を抱え込むことになりました。この罪悪感が、自らの行為を赦そうとする浄化の儀式へとつながり、神への信仰・宗教の発生へとつながります。中井さんは、狩猟社会では一般的に宗教が見られないことを指摘します。
執着気質者は、自然・神への罪悪感と自立意識を有し、それゆえ自ら自由に発想する余裕を持たず、ひたすら既存の尺度に合わせた行動を取ります。彼らは自身の罪悪感を否認することに躍起になり、それゆえひたすら攻撃的に尺度・規範に合わせて行動することで罪悪感を忘却しようとします。自然への依存を放棄したのですが、それに罪責の念を持つため、自ら新しい尺度を作る余裕を持ちません。それゆえ彼らは本当には自立せず、何かに依存しなければなりません。その新しい依存の対象が農耕において特徴的な生産高の計算であり、そこには意味が消失した「計算可能性」が追求されることになります。
この執着的生産活動が顕著に見られた時代の一つが、戦後の経済先進国であり、日本です。農耕社会の計算への執着はそのまま工業社会に受け継がれ、執着・依存する規範が強化された社会を生み出しました。
社会学者のマックス・ヴェーバーは、資本主義の精神の原型としてプロテスタンティズムの倫理を挙げましたが、宗教的精神による経済活動の促進というヴェーバーの図式を、おそらく中井さんは応用したのでしょう。神への罪責感は「自立」の意識と結びついており、それは既存社会の価値規範への過度の適応(=依存)を促します。
ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、宗教的規範への依存と経済活動への執着が一体となっていた時代はほんの一時期のことであり、一度資本蓄積活動が軌道に乗ると、元来経済人が持っていた宗教的エートスは失われ、資本蓄積活動それ自体が自己目的化したと末尾で触れています(この本は、マルクスの経済分析を行為者の内面から見つめようとしたように読めます)。
それと同じように中井さんも、執着的気質により戦後の高度成長を達成した日本の末路を、この書が出版された1982年に次のように述べています。
「高度成長を支えた者のかなりの部分が執着気質的職業倫理であるとしても、高度成長の進行と共に、執着気質者の、より心理的に拘束された者から順に取り残され、さらに高度成長の終末期には倫理そのものが目的喪失によって空洞化を起こしてきた。
著者はこの時期に、そのあとに来るものはあるいは、より陶酔的・自己破壊的・投機的なものではないかというそれをのべたが、それは一時期、現実のものとなったようである。
二宮の仕法のごとく、利潤を分配することなく、その享受のレベルを抑えて設備投資に再投下する積小為大の企業版は、欧米企業の職業倫理上、決してなしえないところであるが、その果てに利潤を土地に投機しはじめた。それは目的喪失による行為というのみでなく、一つの自己破壊行為でありうると思われる。なぜならば、他方に執着気質的職業倫理にもとづく努力によって企業を富ましうる多数者が同じ倫理にもとづく貯蓄によってこの高価な土地を購入しなければ、それは私物と化するという矛盾がある」(69頁)。
(「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」中井久夫(著) 2に続く)
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