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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

書籍 『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』 城繁幸(著)

2007年09月01日 | Book
城繁幸さんが書かれた『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』を読みました。著者は富士通の人事部で働かれていた方です。

1990年代後半に富士通で成果主義が導入された際に著者は人事部に属し、「一般社員」とは異なって若いながらもその制度がどのように運営されていたかを直接見る機会に恵まれていました。そのときに感じた義憤がこの著書の執筆のエネルギーになっているようです。

成果主義というと、アメリカから導入された人事評価の方法であり、アメリカ文化に根づいたものという印象が私にはあります。その「成果主義」の崩壊という言葉が題名につけられていると、アメリカ的な人事制度が批判されている、あるいはアメリカ的な制度は日本の企業には合わないという内容を予想します。

しかし、たしかにそういう側面もありますが、この著者がより狙いとしているのは、このアメリカに由来する制度を骨抜きにして自分たちの立場・待遇を守り抜こうとした富士通の管理職の人たちを批判することです。

著者は、富士通による成果主義制度の導入はそれほど慎重に検討された末での実施ではなく、コンサルタントに“のせられた”結果であり、またその成果主義も、シリコンバレーというアメリカの中でも極端に成果主義の精神が行き渡っている地方で実施されている制度をそのまま日本企業に移植するという、かなり無理のあるプロジェクトだったことを指摘します。

この成果主義が導入された背景は、やはり90年代の不況であり、その不況を予測できずに新卒社員をバブル期に大量に採用し続けたことがあります。

それまで日本の大企業で採られていた年功賃金制度は、会社の人員構成が年代別に見てピラミッド型となって初めて成立する制度でした。下部の大量の社員が売り上げを伸ばしながら彼らの賃金を抑えておくときにこそ、相対的に少ない管理職社員の賃金を引き上げていくことができるからです。

しかしバブルの崩壊は、このピラミッド構造を崩すことになります。不況で新卒採用を控える一方で、バブル期に大量採用された社員たちは年齢を上げていきます。彼らにも年功制を採用していては、人件費が企業の財政を圧迫することになります。そこで、人件費を圧縮するために採用されることになったのが成果主義でした。つまり、成果主義の実施の背景には、できる社員にやる気をださせる以上に、「できない」社員の人件費を抑えるという目的がありました。

それまでの日本の大企業では、「できる」社員も「できない」社員も賃金を引き上げていくことが可能でしたが、消費者のニーズの変化や人口の減少から、右肩上がりに業績を上昇させることは簡単ではありません。そのような時代に、全社員の賃金を自動的に上昇させるということを約束することはできません。成果主義は、企業の先が見えないからこそ、人件費を調整するためのシステムとして採用されました。

外部にいる私からみれば、それ自体は論理的な考えのように思えます。また著者も、そのような成果主義の制度それ自体を批判しているようには見えません。

むしろ問題は、実際に富士通でその成果主義が運用された実態でした。バブル期に採用された若手・中堅社員が評価によって賃金が決められていく一方で、評価を下す側の管理職たちはその仕事ぶりが誰かに評価されるということはありません。著者はそこに、富士通における成果主義の失敗の原因をみます。

著者から見れば、現在(当時)の富士通の管理職社員は、年功制の恩恵により自動的にポストと高給(1千万円以上)を与えられた人たちです。某大企業で働いていた私の知り合いは、「大企業で必死に働いているのは1割だけ。後の9割はその1割の人のおかげで楽に過している」とよく言っていましたが、この著者も、富士通の管理職の人たちの実際の能力・生産性(売り上げに貢献する能力)には疑問符をつけています。

たしかに、管理職の人たちの実際の能力はどうあれ、それまで自動的に昇格できた人たち、つまり他人から仕事振りを細かく評価されたことのない人たちが、いきなり若い人の能力を評価するようになるのですから、本当に適正に評価がなされるのか?という疑問が若手から出るのは当然です。成果主義とは全く縁のなかった人たちが成果主義を運用する側になり、若手はその人たちの評価で社内での地位が決まってしまうのですから。

このような当然出てくる疑念に加え、著者は、富士通での成果主義の運用はきわめて杜撰だったことを指摘します。

まず、社員一人ひとりが書き上げる目標達成報告書を綿密にチェックする人がいないこと。

理念としては、成果主義はその人の働きぶりに応じて賃金を適性に変動させる必要があります。しかし富士通では、あらかじめ各部署に好成績のランクの数が割り当てられており、社員がどれだけ頑張ってもその高ランクを獲得できる人数は決まっていました。つまり、学校の通信簿のような相対評価だったということです。

また、そのランクの割り振りも各事業部の売り上げへの貢献度に応じた適正なものなのであればよいのですが、実際は、人事部という顧客から最も距離が遠い部署が独占的に高いランクを得る一方で、学位取得者が多く集まる開発部門の人は馬車馬のように働きながら僅かな者しか好成績をとれないという歪な構造になっていたとのことです。これは、富士通では人事部が社内の人事を決めるという権力を独占的に握っていたからです。

このように、各部署で取ることのできる成績があらかじめ決められているのですから、各社員が提出する業績報告書の中身も上司によって真剣に検討されることはありませんでした。

つまり、富士通では、成果主義によって社員それぞれの業績が正確に測定されることはなく、単に会社が上から割り振った成績を管理職が社員に押し付けて、社員間に序列をつけるだけになったということです。

このように社員の業績が真剣に検討されない一方で、社員の側は最初に目標にした仕事は期内にしなければならないというプレッシャーに苛まれます。そのため、各社員は最初の目標設定時に、必ず達成できる仕事しか自分に課さないようになります。ここから働く意欲が失われていったことが容易に想像されます。

また、著者が指摘しているように、そもそも個々の社員が達成した業績を分かりやすい形で数値化できるのは、一般消費者向けの商品の営業ぐらいでしょう。開発や顧客の苦情処理、経理などのサポートは、それらの社員一人ひとりがどれだけ売り上げに貢献したかを数値化することは困難です。開発がチームとして物事を達成することはよくあることはもちろんですが、営業による売り上げですら、後ろのサポートがなければできることではありません。それまで営業で好成績を挙げていたビジネスマンが、独立して伝票整理に追われていっこうに仕事が進まないという話はよく聞きます。

ホテルでは、お客の苦情処理が最も重要な仕事だと言われているそうです。お客の評判がその後のホテルの業績を決めるので、苦情処理を上手くするかどうかでホテルの業績が決まるからです。しかしこれもホテルには限らないでしょう。

大企業の場合、直接売り上げに関わらない部門が多いし、またそのような人たちが大量にいなければ“組織”は機能しません。人が多くいるほど、それらの人たちの関係を内部調整し、他人の仕事をサポートするという仕事が増えていくらかです。

大組織がそのような性格をもつ以上、個々の社員の貢献度を数値化し、一人ひとりの社員の間に差をつけるということは困難です。せいぜい、だれが見てもよくできる社員とそうでない社員との間に違いを見つけることぐらいじゃないでしょうか。にもかかわらず、成果主義はそこに無理やり各社員の間に差をつけようとするため、「なぜあの人と俺との間に差があるのか?」という疑念を社員たちの中に呼び起こします。

最初に述べたように、著者の狙いは成果主義への批判ではなく、それを導入しながら、自分たち自身は評価される側に回ろうとしない管理職の人たちへの批判にあります。つまり、他人の成果を評価する側の人間がそれだけの資質・能力をそなえていないのではないかという疑念です。つまりそれは、右肩上がりの経済成長の時代に大企業の中で安楽に過してきた(とされる)現在の管理職世代の人たちにはビジネスマンとしての能力がないのではないかという、著者の疑いの目です。

ここで描かれているのは世代間対立の構図です。つまり、自分たち自身は苦労もなく昇給・昇格を勝ち取ってきた管理職世代の人間たちが、この不況下の中でも自分たちが受けている待遇だけは守ろうとしながら、コスト削減のために若い人たちの給料は成果主義の導入で抑えていこうとしているというストーリーです。

そのことは同時に、著者が望んでいるのは、むしろ成果主義の適正な運営だということを意味しています。ラストでも触れられているように、著者はあらゆる立場の人の業績が評価される制度によって、より公平な評価の実施の必要性を訴えています。

しかし私には、そもそも組織の構成員一人ひとりの仕事を数値化することで評価することの不条理さばかりが、本書を読んで感じられました。

もちろん、他人を評価するということは自体は、企業には必要でしょう。適切に仕事をしているかどうかを吟味せずに、誰でもが自動的に昇給・昇格することは、組織の運営に支障をきたすでしょうし、現在の経済状況はそれを許さないでしょう(しかし、実はこれを現在も行っているのが公務員組織だと言われています)。

しかし、能力を数値化によって判断しようとすること自体にそもそも無理があるようにどうしても思えます。実際、そのような無茶なことをしているのが、学校教育なのですが。

人の能力を“正確”に把握することはできないし、それでもあえて評価するときには、それはファジーにならざるをえません。そもそも、大組織に属するということは、そのようなファジーに耐えることを要請するのではないでしょうか。つまり、他人に自分のことを正確に理解してもらうということを諦めるということ。大組織というのは、そういう場なのではないでしょうか。

大組織がそのような不条理な場であるという事実をごまかす緩衝材として役割を果たしてきたのが、年功制であり終身雇用だったのでしょう。しかし、そのような制度が維持できない状況になれば、自然に人々は、巨大組織がそもそももっている、“各社員を正確に評価することはできない”という性格が浮き彫りにならざるをえないのだと思います。

その上で、それでも人々は大組織に属することを選ぶのかどうかを問われているように、この本を読んで思いました。

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