joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

四月

2007年04月03日 | reflexion


四月は、私たちにとって子供のときから新しいものが始まるときです。幼稚園に行き、小学校に行き、中学校に行き。私たちはこの季節に親から引き離され、集団組織に連れて行かれました。

その儀式は一見素晴らしく神聖なものとして演出されています。桜の演出の下で、自分と親はよそ行きの新しい服を着、居心地の悪い緊張感をもちながら、新しい組織の場に加入します。

その組織への参入により、私たちは規則を課され与えられた任務をこなすよう訓練されていきます。またその任務をこなすことが、“社会性”を身につけるものと社会的に認知されます。


四月は私たちにとって、家や親という楽園から引き離され、業績遂行と社会性獲得のための訓練の場へと引き渡される時期です。そこで私たちは、親と社会により、自立した大人への道を歩むよう祝福され期待されます。

多くの人にとって四月の明るさが痛く感じられるのは、四月がそのような組織・社会への参入を試みた時期であり、しかし多くの人は自分は親や社会が自分に期待したものを達成できなかったと感じているからです。

親が多くの希望をもって自分を社会・組織に送り出しておきながら、今の自分は結局は何も成し遂げられなかったという罪悪感を多くの人がもっています。四月は、親が自分にかけた期待の重さと、その期待に自分は応えられなかったという失敗感を、私たちの中に引き起こします。

また「成功」した人にとっても、親が自分にかけた期待と、その期待に応えるべく頑張った自分の軌跡を思い出し、それが本当に自分の望んだ道だったのかもう一度問うてしまう時期なのでしょう。

それゆえに私たちにとって桜に彩られた四月の明るさは、とても痛いものに感じます。




写真:丘の上の家々

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