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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『企業の人間的側面』 ダグラス・マクレガー(著) 1

2006年11月10日 | Book


アメリカの経営学者ダグラス・マクレガーが著した『企業の人間的側面―統合と自己統制による経営』(1960)を読みました。経営学の古典ということだけれど、私はマズロー『完全なる経営』を読むまでは知りませんでした。

このマクレガーの本は経営学者たちの間で古びているのかまだ言及されているのか?あるいは、ビジネスマンたちにとって古いのか新しいのか、私は正確な現状について知りません。

X理論・Y理論

マクレガーの主張は、「X理論・Y理論」という言葉で知られています。

X理論とは、従業員あるいは人間は本来働くことが嫌いであり、お金のことだけを考えており、自分がトクをすればよいと考えている。いかに働くことを避けて、いかにお金を多くもらうことができるか、そういうことばかりを考えている生き物であるとみなす人間観を意味します。

このX理論に従えば、経営者が考えるべきことは、働くことが嫌いな従業員をいかにして仕事に向かわせるか、になります。

それに対しY理論は、人はお金のためにのみ働いているのではなく、内的な欲求にしたがって自発的に働く場合があるという事実を重視します。Y理論では、どうすれば人間はこのような自発的行動を起こすのか、その条件を探ります。

このような問題観点がもし古いのだとしたら、この問題観点を古くした考え方を是非知りたい。私には、人と社会と労働の間の様々な問題の多くは未だに、この問題観点から出発して考えなければならないように思います。

人が幸せに働くことを知っているのであれば、現在の社会の問題の大部分は消えてしまうのではないでしょうか。

Y理論の内容について、マクレガーはマズローとほとんど同様の議論をしています。

マクレガ-によれば、人間の欲求には衣・食・住にかかわる生理的欲求が最初にあり、それらが満たされた後により高次の欲求が湧き起こります。この高次の欲求としては

・社会的欲求:帰属したいという欲求、集団を作りたいという欲求、同僚から受け入れられたいという欲求、友情や愛情を交換したいという欲求、
・自我の欲求:
  1.自らを重んじる心に関するもので、自尊心と自信をもちたいという欲求、自治の欲求、完成の欲求、能力を伸ばしたい欲求、知識欲、 
  2.自己の評判に関するもので、地位に対する欲求、認められたいという欲求、

正しく評価されたいという欲求、同僚からしかるべき尊敬を得たいという欲求、

などがあります(43-44頁)。

このような低次の欲求から高次の欲求へと至る段階を成す“順番”が、それが実体をなすかどうかについて他の心理学者からは批判されるのでしょう。

ただマクレガーも、生理的欲求・安全に対する欲求・社会的欲求が満たされなければ、自我の欲求がその人にとって問題となることはないけれども、ただし例外として、生理的欲求までも奪われた上に人間の尊厳が踏みにじられる場合には、政治革命などに表れる自我の欲求が目覚める可能性を指摘しています。

この欲求の段階の最後に、

・自己実現の欲求:自分自身の能力を発揮したいという欲求、自己啓発を続けたいという欲求、広い意味で創造的でありたいという欲求

があります(45頁)。

(このような欲求段階説のいい点は、私の考えでは、素晴らしい人間とそうでない人間との差異が消され、すべての人間が素晴らしい人間となる可能性をもつとみなすことができるところにあります。

また同時に、条件が揃わなければ、誰でも素晴らしいわけではない人間になる可能性をももつこと。

そのような視点により私たちは、善悪の判断により他人を裁く態度を控えることができます)

マクレガーから見れば、もし社員がこれらの欲求を満たすための自発的な行動をしていないのだとしたら、それらの欲求を満たす条件がその職場に揃っていないことに原因があります。

食事が足りなければ病気になるように、安全性に対する欲求、団結の欲求、独立の欲求、地位に対する欲求が満たされない人間は、著者から見れば「病気」と同じです。それは外面的には、「命ぜられたことしかやらない「敵意」「責任逃れ」「怠け」「現状を改めることを嫌う」「扇動者への付和雷同」「不当な賃上げ」などの症状として表れます(46頁)。

社会的欲求や自我の欲求を満たそうとする自発的行動を社員が示していないとき、著者から見れば、それはその社員の人間性に帰せられるべきではなく、むしろそれらの欲求を持つための環境が整備されていないことに原因があります。

例えば経営者が、社員=人間とは給料のために働いており、彼らは職場で働くという“嫌なこと”の代償としてお金を求めていると考えているとします。経営者がそのような考えで会社を作るとき、職場とは一種の“懲罰”の場であり、職場環境をよくするという発想は出てきません。その経営者から見れば、社員が求めているのは給料なのですから、給料以外の事柄に属する職場環境は、二の次になります。言い換えれば、お金を与えている以上、どのような環境でも社員はそれに服すべきという発想を経営者はもちます。

そのような環境では、社員は社会的欲求・自我の欲求・自己実現の欲求を満たすことはできません。また“懲罰”である以上、社員は経営者の目を盗んで仕事をサボり、いかに給料を“盗む”かに専心します。


人が高次の欲求へと向かうための条件

では、職場において人の高次の欲求を満たすための環境作りに関して重要なことは何かという問いに対して、マクレガーは、企業目標と個人目標の統合という考えを出します。

企業目標と個人目標の統合という考えは、まず個人は仕事に関して目標を持つとみなさなければ発想することができません。しかしこのような発想をしなかったのが、マクレガー当時の経営管理の考えでした。その考えによる人間観=X理論を著者は次のようにまとめています。

1. 普通の人間は生来仕事が嫌いで、なろうことなら仕事はしたくないと思っている。

2. この仕事は嫌いだという特性があるために、大抵の人間は、強制されたり、統制されたり、命令されたり、処罰するぞと脅されたりしなければ、企業目標を達成するために十分な力を出さないものである。

3.普通の人間は命令されるほうが好きで、責任を回避したがり、あまり野心をもたず、なによりもまず安全を望んでいるものである。このような人間観(これは新古典派経済学やゲーム理論にも当て嵌まるだろうか?)を持つ場合、人を働かせるために to make him or her do(“働いてもらう”to have him or her do とは考えない)、権限によって相手をコントロールしようとする。従業員はロボットでしかない。

それに対しY理論を著者は次のようにまとめます。

1. 仕事で心身を使うのはごくあたりまえのことであり、遊びや休憩の場合と変わりはない。

2. 人は自分が進んで身を委ねた目標のためには自らムチ打って働くものである。

3. 献身的に目標達成につくすかどうかは、それを達成して得る報酬次第である(報酬としての自己実現欲求の充足、自我の欲求の充足の重要性)。

4. 普通の人間は、条件次第では責任を引き受けるばかりか、自ら進んで責任を取ろうとする。

5. 企業内の問題を解決しようと比較的高度の想像力を駆使し、手練を尽くし、創意工夫をこらす能力は、たいていの人に備わっているものであり、一部の人だけのものではない。

6. 現代の企業においては、日常、従業員の知的能力のほんの一部しか生かされていない。


X理論とY理論を比較して気づくのは、X理論で管理を実践する場合、何をすればいいのかすぐに思いつくこと。それはルールの取り決めであり、文書であれば口頭であれ“言葉”による仕事内容の指示であり、事後的に実際に行なった仕事の内容をチェックすることで部下を監視することです。そのチェックにおいても、部下からの“報告”では言葉が使われ、また数量化された際には数字という記号が使われます。いずれにせよ、言葉・数字・記号といった抽象的手段が監視と結びつきます。

それらは抽象的であるゆえに、より現場の実態とはかけ離れたコントロールがなされます。しかし実態とはかけ離れているゆえに、管理者にとって管理は容易になりますが、部下は実態に合わせた行動を以後取ることが難しくなります。

それに対しY理論では、このY理論を眺めても、では次に何をすればいいかは簡単には分かりません。「人は自分が進んで身を委ねた目標のためには自らムチ打って働く」と分かっても、どうすれば「進んで身を委ねる目標」を人がもつようになるかは、安易にマニュアル化できないからです。

この本の中でマクレガーは「業績評定」「奨励給」などを批判して、“何が経営にとってよくないか”を記す際にははっきりするのですが、どうすればいいのかはは、はっきりとマニュアル化して書いているわけではありません。そもそも創造力とか内発性とかいったことを引き起こす方策を明示することには無理があるのでしょう。そこに“企業目標と個人目標を統合”させることの困難があります。

次のマクレガーの言葉は、個人に自発的に目標をもたせ、それに献身させるための分かりやすいマニュアルなどないことを示しています。彼は昇進と人事異動を適切に行なうための条件を次のように述べます。

「1. 個人をポストに就ける場合(少なくとも管理者については)機械的手続きでやってはならない。

  ①資格要件は静的ではなく動的である、すなわち時と場合によって変わる多くの与件に応じて変化する。

  ②人によって資質は様々であり、与えられた仕事のやり方も思い思いであるが、会社の目標は皆同じようにうまく達成できる。

  ③管理者として成功するにはどんな特質がいるかは十分分かっていないし、またそのために重要と思われる特質をズバリ測定する方法はない」(122-123頁)。


これらの言葉は、人が高次の欲求に向かって動き出すことを奨励するための、確実な手段は存在しないことを示しているように、私には思われます。マクレガーは「参加」の意義なども説き、部下がより大きな決定権を持つことの大切さを主張しますが、それもごくごく一般的な書き方しかしてありません。それは、どういう「参加」がいいかなどを明示的に制度的条件として記した途端に、それは決まりきった一つの管理形態に堕ちることを知っているからだと思います。


《信頼》の重要性



そのように人の高次の欲求を呼び覚ますための条件を明示的に語ることは困難なのですが、その上でマクレガーはその条件のいくつかを指摘します。

その一つが、『「引きこもり」を考える』についての先日の感想の中でも取り上げた、年長者と年少者との関係の重要性です。

例えば、当たり前と思う人が多いだろうけれども、部下が上司を《信頼》できること。

X理論の見方では、人・従業員は、自分の地位の保障を最も求めると考えます。それは先任権であったり、終身在職権であったり、退職金や年金の権利であったりなど。「フリーター対策」として企業に正社員化を促す政府の動きも、そのような保障により若者はもっと働く意欲を持つという考えに拠っています。

しかしマクレガーは、もし従業員が上司を《信頼》できるならば、そのような物的保障がなくとも、従業員は職場への参加意識をもつと指摘します。彼は次のように述べます。

「部下というものは、恐れを感じるとき、上役の専断的行動、えこひいき、特別待遇を恐れるときは保障を要求する。しかし、上役をほんとうに信頼しているときは公平な扱いだけを求める」(158頁)。

この公正さは、おそらく規則によって示されるだけならば、「部下」は上役を信用しないでしょう。どれほど「公平」「客観的」な規則であろうと、それを運用する際に恣意が働くことは、いくらでも疑うことができます。

むしろ「部下」が求めているのは、上司の態度・行動が示す《誠実さ》です。その《誠実さ》は例えば、上役が会社に向かってモノを言えることができ、部下のための援助を惜しまず、また真に部下に対して「個人的関心」を示すなどです。

さらには、上役が「部下」=人間というものを次のようにみなすかどうかです。すなわち、
「彼は、普通の人間は誰しもかなりの知識と能力をもっていると信じている。自分はかなりの能力をもっているかもしれないが、限られたエリートの一人であるとは思っていない。ほとんどの人間は成長し、発展し、責任を遂行し、創造的な仕事を完成していくのに真の能力をもっていることを知っている。彼は部下を、自分が自分の責任を遂行するに当たって助けてくれる本当の資産であると考えており、この資産を活用できるような環境を作ることに関心をもっている。彼は人間一般が愚かで、怠け者で、無責任で、不正直で何でも反対屋だとは思っていない。そのような人間がいることは知っている。しかし、そんな人間はまれにしかいないことを知っているのである」(163頁)と。

そのような上役であれば、効果的な権限委譲を行い、部下の能力開発の機会を与え、部下を自分の所属する部門の問題を解決する際に助けてくれる人材として用います。

マクレガーは、そのように上役が部下を信頼して作られる部下の業務への「参加」という形態の特徴を、アメリカ経営者協会会長の言葉を借りて次のように指摘します。すなわち、

「 1. 自分で問題を分析し、最上の解決案を見つけ、

  2. 部下を集めて、ともに問題を話し合い、

  3. 自分の最初の案より、もっとよい解決策を得て、会議を終らせることであ

る」(163頁)と。

ここで示された参加は、最初から、部下=人間は、自分よりも能力を持つという前提を上役がもって初めて実現します。
 
そのような上司による部下への信頼があって初めて、「部下」は、自分の職場には正義と公平の原理が貫いており、自分のいる場所は正しい世界であり、自分の人柄が上役によって否定されていることはないと信じることができます。そのとき初めて「部下」は、上役を《信頼》し、その職場での活動に献身することを自分に許します。

ただ、このような信頼関係の醸成も、おそらくマニュアルによって作ることはできないでしょう。著者は次のように述べています。

「上役・部下の間で生れる非常に重要な環境は、方針・手続によって決められるものではなく、上役の人柄によって決められるものでもなく、上役が抱いている経営の基本観念、従業員一般に対する考え方からでてくる、微妙でかつごくしばしば無意識に漏れる言動によって決まるのである。どんなに注意深く、よく考えをめぐらした人事管理の方針・手続をもってしても、また、いかに手の込んだ管理技術の訓練をしてみても、更にまた、味方を獲得し、人を動かすやり方についての知識をいくら習得しても、もし環境がよくなければ、部下はごまかしで搾取の道具として受け取るであろう。同じ方針や手続を用いても、会社によって違った結果を生むのはこのためである」(164頁)。

「基本的考え方(論理的考慮)は、方針と手続とテクニックに関してばかりでなく、経営者の毎日の行動の微妙な面にまで影響を及ぼし、これが人間関係の「環境」を決定するのである。これらの経営者の考え方と態度といったものから、会社の一員としてどれくらい目標を達成し、欲求を満足できるだろうかという、部下の思惑が生れるのである。公式の方針・計画・手続が実施され、受け取られるのは経営環境の中である。経営環境こそ第一であり、管理のメカニズムは二の次である」(167頁)。


「『企業の人間的側面』 ダグラス・マクレガー(著) 2」に続く。)


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