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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『日本を変える―自立した民をめざして』

2005年11月23日 | Book
   

『日本を変える―自立した民をめざして』という本を読みました。読んでからもう1ヶ月近くたつかもしれません。今になって感想を書こうと思いました。著者は、コンサルタントを経て大学で経済をおしえられている川本裕子さんという方です。

内容はマスコミで断片的に伝えられる「構造改革」のポイントについて最初から丁寧に整理しているというものです。

日本の国家財政は莫大な赤字を抱えていること。ヨーロッパの水準に比べても日本の社会保障支出は低くないこと。だから支出を抑えるべきということ。

お金はもっている分だけ使うべきであって人からたくさん借りてまで支出してはいけない。こうした「当たり前のこと」をちゃんと当たり前のこととして守るべきである、そう著者は繰り返します。現在の国家財政を考える上で難しい議論をすべきではなく、シンプルで大事なことを守りましょうと繰り返し訴えます。そこから必然的に、道路公団を初めとする特定法人の健全な民営化を主張されています。

その際に会計基準の採用方法や国財政の資料などを提示されていますが、しかしこの著書の基本は、そうした細かなデータの正確性以上に、お金は入ってくる以上に使ってはいけないこと、そのためには倒産の可能性のある民営化が特定法人や銀行に求められること、それによって経済は円滑に運行すること、このことです。

あまりにも「当たり前なこと」を言うので、読んでいるこちらが戸惑うほどです。ただ、これだけ当たり前なことを書いていても嘘に聞こえないのは、著者の誠実さが伝わってくるからです。特定の利害関心からではなく、「客観的」な視点で経済運営を考えていることが読んでいて分かります。


ただ、利害関心にとらわれない視点で「民にできることは民に」を主張しているがゆえに、かえって民営化論に感じる違和感も読んでいて増幅されます。おそらくその違和感は、「民にできることは民に」という主張が、その先にある社会ヴィジョンを提示しないことにあります。

「民にできることは民に」という議論は、国家財政の肥大化に対するアンチテーゼとしてのみ本来は機能する議論です。

なぜ国家財政は肥大化するのか?歳入よりも歳出が多いからです。「民にできることは民に」論は、この原因を歳出の肥大化としてとらえます。つまり国家の財布の開け閉めとしてとらえます。

国家の財布の開け閉めとしてとらえると、経済の議論が政府と行政という社会のピラミッドの頂点にのみ関係する議論となります。財布をもてるのはごくごくごく一部の人だけだからです。

いわば、社会の(国家の)中のごく一部だけの改善によって社会全体が変わると考えることになります。もちろんその一部は比較的大きな影響力をもつのですが、国家財政を少なくすれば社会はよくなるという議論には明らかな飛躍があります(著者がそう言っているわけではないけれど)。

国家財政支出を少なくし、特定法人の民営化を進め、銀行のリテールビジネスを活性化させ、産業構造の転換を進めるべきというのが著者の主張です。

こうしたまっとうな議論に違和感をもつのは、では著者が考える健全な市場経済・健全な企業運営・そして働く人にとってよい職場環境と国民にとってよい生活環境とはどういうものなのだろうか?という疑問です。

「市場原理主義」というレッテルに著者は反発していますが、では市場の力を肯定することが単なる感情論でないのであれば、おのずとよい市場経済・よい企業のあり方・よい働き方・よい生活の仕方についてなんらかの考えを著者はもっているはずです。それを提示しないかぎりは、「民にできることは民に」論は、社会主義経済のアンチテーゼとしてしか機能しません(それが著者達にとって本意ではなくても)。

「構造改革」論者の中には、「構造改革に反対する人たちは対案を出さない無責任な人たちだ」と言う人がいます。しかしわたしから見れば、「構造改革」論自体が、これまでの財政支出主導型の経済にアンチテーゼを出しているだけの、言わば「反対論」だけを提示している議論です。

現在の経済の不況の原因は何なのか?それは消費者の趣向の変化に供給側が追いついていないためだと私は思います。その視点から見れば、最も改革すべきなのは商品の提示に関する企業の姿勢です。これは、それこそ民の感性にかかわるがゆえに最も困難なことです。単に国家の財布の紐を締めることとは難しさが桁が違います。

言い換えれば、国家の財布の紐を締めるという作業は、そう発想すること自体は難しいことではありません。もちろんその過程では一部の官僚や利害段階からの反発があるという困難さはありますが、踏むべき手順自体は比較的容易に思いつくことができると思います。

しかし企業によるサーヴィス供給の際の発想の仕方の改革は、それこそひとりひとりの感性・生い立ちにかかわることであり、単なる経済活動だけではない、人々の生き方そのもののに関する根本的な再検討が迫られます。

市場万能論を唱えているようにみえる川本さんも、まさか過労死にいたるまで働かされることを肯定しないでしょう。コンサルタントとしての経歴が長い彼女から見れば、むしろ、よい企業とは、よい働き方とは何かについてつねに(自身の経験を振り返りながら)考え続けたのだと思います。ひょっとする別の著書や大学の講義ではそうした考えについて頻繁に述べているのかもしれません。

ただ『日本を変える―自立した民をめざして』という大風呂敷を思わせる題を掲げる以上は、そうした人の働き方・生き方を含めた包括的な社会論のほんの一端でも示唆して欲しかったというのが、読者としての私の欲求です。

過労死・強引なM&A・構造的に不平等な国際貿易体制・富の格差などなど、市場経済の問題をあげればキリがありません。「民にできることは民に」論の人たちは、過去の問題を指摘しても、今ありこれからも直面すべき問題については触れません。

著者はイギリスのサッチャー政権を賞賛し、改革でイギリス経済が甦ったことを指摘します。しかしそのイギリスの新自由主義により経済格差がより拡大したことは周知の事実です。「民にできることは民に」でビジネスの才能のある者は豊かな生活を享受していますが、その裏で多くの人が今もイギリスでは貧困にあえいでいます。国際的コンサルタント会社にいた著者がその状況を知らないはずがないと思います。また、そうした新自由主義の反省に立って(著者が否定する)「第三の道」がイギリスから出てきたことも著者は知っているはずです。

アメリカとイギリスが新自由主義の後にどういう社会になったかは私たちはわかるはずです。にもかかわらず、これらの国を単純に模倣するだけなら、「民にできることは民に」論はやはり責任ある議論とは言えないと思います。


涼風

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