小説が全く書けない。
全然書けないのである。
もう、小説を書けなくなってから何年になるのだろう。
それでも、いくらなんでもこのままでは駄目になると思い、3年前、錆びた心に鞭を入れ、1月20日締め切りの「ゆきのまち幻想文学賞」にギリギリ提出した。
それが最後だった。
やっと30枚、書いた。やっと、やっと30枚書けた。
400字原稿用紙30枚を年が明けてからの2週間で何とか書き上げ、そのまま応募したのである。
当然、落選すると思っていたその小説「北の王」が、どうにか長編賞の佳作に滑り込み、授賞式に出席し、審査員である某エッセイストの方に「君の小説、押したんだよ。残念だったね。次に期待してるから頑張って」と優しく声を掛けられても、「もう、書くの止めようかなって思ってます」と、馬鹿な捨て台詞を吐いたりした。
どうしようもない人間なのだ、俺は。
ここずっと、机に座ってはパソコンを開き、そこに残している長編小説―いまだに未完で、40枚ほどまで書き上げてそのままドン詰まり状態の小説―を眺めては、てにをはを直すだけ・・・。あとは一切、進んでいない。
もう通算すると、10年近くになるかもしれない。
結局何も書けず、数年に一度、思い出したように応募する「ゆきのまち幻想文学賞」(この賞は、制限枚数が400字原稿用紙10枚か、30枚しかない)を除いて、あとは何処にも発表さえしてない。・・・というか、まだ仕上がってもいないんだけど。
仕事が忙しいことを理由にしている自分がいる。
でも、これも嘘だ。
そうすることで自分を納得させ、仕事が多忙で書けないという理由を持ち出すことで、それに甘んじている、単にそれだけだ。
俺には覚悟がない。
すべてを棄てて、書くことだけに専念すること。退路を断つこと。それが出来ないのである。
それに比べ(比べる自体おこがましいけど)芥川賞を獲った、田中慎弥氏は立派だと思う。心から尊敬する。
「文藝春秋」の受賞インタビュー記事を読んだら、工業高校を卒業して大学受験に失敗してからは、一切これまで就職に就かず、小説を書くことのみに専念したのだという。
話題騒然となった受賞記者会見では、「(女優のシャーリー・マクレーンがアカデミー賞を貰ったことを引きあいに)私がもらって当然だと思うと(シャーリー・マクレーンが)言ったそうですが、だいたいそんな感じ」と言い切り、「(芥川賞を)断ったりして気の弱い委員の方が倒れたりしたら、都政が混乱するので。都知事閣下と東京都民各位のために、もらっといてやる」とか、「(会見)とっとと終わりましょう」とも語っていた。
勝てば官軍、負けたら賊軍。勝ったものだけが勝利者となる。誤解を恐れずに言い切れば、「敗者は何も貰えない」。
いいじゃん。田中慎弥。
その田中慎弥が芥川賞を受賞した、小説「共喰い」と、第144回芥川賞の候補となった「第三紀層の魚」の2作品を読んだ(買ったのはだいぶ前でしたが)。
「共喰い」は、とてもいい小説だと思う。
読み出した最初の数行から、その情景が鮮やかに心のスクリーンへと描き出される。こういう事は余りない。それだけ、文章が巧いということだろう。筆力がある。
主人公である17歳の篠垣遠馬(とおま)。よく判らない怪しげな仕事をして生業をたてている父の円(まどか)。飲み屋に勤めている、父の愛人である琴子さん。父と離婚している、右腕の手首から先がない母、仁子さん。そして、遠馬の恋人である一つ年上の会田千草。
この4人が絡み合いながら物語は進んでゆく。
まるで、中上健次の小説を彷彿とさせる。
風土、血と暴力、父と子、セックス、女性の象徴としての川、方言などが圧倒的な力を伴って迫って来るのだ。
久しぶりに、迫力に満ちた言葉に遭遇した気がする。
そして、ラスト数ページの圧倒的な物語展開!
傑作である。
ただ、最後の最後の1行だけはないでしょう。
芥川賞選者である山田詠美も、「文藝春秋」の「選評」で述べていたけれど、あれはいらないんじゃない?
あの最後の1行を削いでいたなら・・・。
全然書けないのである。
もう、小説を書けなくなってから何年になるのだろう。
それでも、いくらなんでもこのままでは駄目になると思い、3年前、錆びた心に鞭を入れ、1月20日締め切りの「ゆきのまち幻想文学賞」にギリギリ提出した。
それが最後だった。
やっと30枚、書いた。やっと、やっと30枚書けた。
400字原稿用紙30枚を年が明けてからの2週間で何とか書き上げ、そのまま応募したのである。
当然、落選すると思っていたその小説「北の王」が、どうにか長編賞の佳作に滑り込み、授賞式に出席し、審査員である某エッセイストの方に「君の小説、押したんだよ。残念だったね。次に期待してるから頑張って」と優しく声を掛けられても、「もう、書くの止めようかなって思ってます」と、馬鹿な捨て台詞を吐いたりした。
どうしようもない人間なのだ、俺は。
ここずっと、机に座ってはパソコンを開き、そこに残している長編小説―いまだに未完で、40枚ほどまで書き上げてそのままドン詰まり状態の小説―を眺めては、てにをはを直すだけ・・・。あとは一切、進んでいない。
もう通算すると、10年近くになるかもしれない。
結局何も書けず、数年に一度、思い出したように応募する「ゆきのまち幻想文学賞」(この賞は、制限枚数が400字原稿用紙10枚か、30枚しかない)を除いて、あとは何処にも発表さえしてない。・・・というか、まだ仕上がってもいないんだけど。
仕事が忙しいことを理由にしている自分がいる。
でも、これも嘘だ。
そうすることで自分を納得させ、仕事が多忙で書けないという理由を持ち出すことで、それに甘んじている、単にそれだけだ。
俺には覚悟がない。
すべてを棄てて、書くことだけに専念すること。退路を断つこと。それが出来ないのである。
それに比べ(比べる自体おこがましいけど)芥川賞を獲った、田中慎弥氏は立派だと思う。心から尊敬する。
「文藝春秋」の受賞インタビュー記事を読んだら、工業高校を卒業して大学受験に失敗してからは、一切これまで就職に就かず、小説を書くことのみに専念したのだという。
話題騒然となった受賞記者会見では、「(女優のシャーリー・マクレーンがアカデミー賞を貰ったことを引きあいに)私がもらって当然だと思うと(シャーリー・マクレーンが)言ったそうですが、だいたいそんな感じ」と言い切り、「(芥川賞を)断ったりして気の弱い委員の方が倒れたりしたら、都政が混乱するので。都知事閣下と東京都民各位のために、もらっといてやる」とか、「(会見)とっとと終わりましょう」とも語っていた。
勝てば官軍、負けたら賊軍。勝ったものだけが勝利者となる。誤解を恐れずに言い切れば、「敗者は何も貰えない」。
いいじゃん。田中慎弥。
その田中慎弥が芥川賞を受賞した、小説「共喰い」と、第144回芥川賞の候補となった「第三紀層の魚」の2作品を読んだ(買ったのはだいぶ前でしたが)。
「共喰い」は、とてもいい小説だと思う。
読み出した最初の数行から、その情景が鮮やかに心のスクリーンへと描き出される。こういう事は余りない。それだけ、文章が巧いということだろう。筆力がある。
主人公である17歳の篠垣遠馬(とおま)。よく判らない怪しげな仕事をして生業をたてている父の円(まどか)。飲み屋に勤めている、父の愛人である琴子さん。父と離婚している、右腕の手首から先がない母、仁子さん。そして、遠馬の恋人である一つ年上の会田千草。
この4人が絡み合いながら物語は進んでゆく。
まるで、中上健次の小説を彷彿とさせる。
風土、血と暴力、父と子、セックス、女性の象徴としての川、方言などが圧倒的な力を伴って迫って来るのだ。
久しぶりに、迫力に満ちた言葉に遭遇した気がする。
そして、ラスト数ページの圧倒的な物語展開!
傑作である。
ただ、最後の最後の1行だけはないでしょう。
芥川賞選者である山田詠美も、「文藝春秋」の「選評」で述べていたけれど、あれはいらないんじゃない?
あの最後の1行を削いでいたなら・・・。