親子関係ほど難しいものはない。
友人との関係性なら、どうしても嫌ならきっぱり絶縁することだって可能ではある。
でも、血の繋がっている親と子はそういうわけにはいかないからだ。
若い頃は、友人とか遊び仲間とかかなりいたほうで、よくみんなとワイワイガヤガヤ遊んだものだ。
勿論、今だって友達はたくさんいる。
でも、昔と違っているところが一つだけある。
それは、友人を選んで付き合っているというところだろうか。
平気で陰に回ると悪口を言ったり、相手の痛みとか気持ちに配慮しない、そういう上辺だけの友人とは関わりを持たないようにしている。
そりゃあ、こちらも大人ですから、「お前とは絶交だ」とか「もう逢わない」なんとこと言ったりはしない。そこまで他人を傷つけるつもりもないし、争って醜く罵り合うのも後味が悪い。
ただ、自然にこちらからフェイドアウトする、ソフトに、しかも自然に・・・。
そういう態度を取り続けると、相手もそのうち感じるようで、そのうち遠ざかる。当然、どこかで会うと、それなりの会話は互いにちゃんと交わしますが。
億劫なのである。
無理して付き合うほど人生なんて長くない。
ならば、本当に友人だと思うような、気心の知れた何でもストレスなく話し合える、そんな友人関係を保ちながら残りの人生を楽しく生きてゆきたい。
それだけなのだ。シンプルに言っちゃうと。
ところがである。
親子の関係だけは絶対そうはいかない。
親は子を、そして子は親を、一生見続けていかなくてはならない。最後まで保護をし、何があっても命を掛けて守り、子は親を頼り、信頼し続けてゆく。
もしも、その信頼関係が瓦解したとしたら・・・。
そこから、最悪の悲劇が訪れたとしたなら・・・。
映画「少年は残酷な弓を射る」の原題は「We Need to Talk about Kevin」である。
「ケビンのことについて、ちゃんと話し合わなければ」・・・そんな感じになるのだろうか。
そしてこの原題が、この映画の全てを語っている。
イギリスの女性文学賞であるオレンジ賞を受賞した、ライオネル・シュライバーの小説を映画化したのが「少年は残酷な弓を射る」だ。
彼女の小説、一度も読んだことがありません。
映画「フィクサー」のティルダ・スウィントン(この映画、彼女が母親を演じたことで凄味がさらに増したのではないだろうか)が主役だけじゃなく、製作総指揮も担当している。
監督はリン・ラムジー。ただし、僕はこの監督の他の作品を観たことがない。今作が初めて。
女流作家エヴァ(ティルダ・スウィントン)は、夫(ジョン・C・ライリー)との間に子供が生まれる。
ケビンという名のその可愛らしい息子は、幼い頃から母親にだけ何故か反抗を繰り返し、深く心を閉ざす。
やがて、エヴァに長女が生まれる。
しかし、ケビンはそのいたいけな妹を虐め、母親への反抗も止めず、父親だけには笑顔をみせて親密な関係性を築いてゆく。
美青年へと成長したケビン(エズラ・ミラーが演じているのだが、何とも妖しく冷徹な役柄を見事に演じていて、この若手男優もまた映画に不気味な存在感を持たせている)は、すべてをぶち壊す、凄まじい事件を起こしてしまう・・・。
重苦しい映画である。
過去と現在が、何度も行ったり来たりを繰り返す。
映像も、ひんやりとした緊迫感に漲っていて、青年となったエズラ・ミラーが登場するあたりで映画自体はひとつの頂点を迎える。
印象的なシーンがある。
ケビンが、長女を抱っこした母親と産婦人科のベッドの上で対面するシーンだ。
母親が笑って、生まれたばかりの赤ん坊をケビンの前に差し出すのだが、長女を初めて見たその瞬間、彼は冷酷な顔を浮かべながら、目の前の赤ん坊の顔に、濡らした指で赤子の顔面へ水を弾くのである。
突然、泣き叫ぶ赤ん坊・・・。
とても不気味で怖いシーンだ。
最後に映画は、邦題のとおり「少年は残酷な弓を射る」ことになる。
なんとも重い感情を引き摺る映画ではある。
ここに当然、カタルシスなど微塵も無い。
友人との関係性なら、どうしても嫌ならきっぱり絶縁することだって可能ではある。
でも、血の繋がっている親と子はそういうわけにはいかないからだ。
若い頃は、友人とか遊び仲間とかかなりいたほうで、よくみんなとワイワイガヤガヤ遊んだものだ。
勿論、今だって友達はたくさんいる。
でも、昔と違っているところが一つだけある。
それは、友人を選んで付き合っているというところだろうか。
平気で陰に回ると悪口を言ったり、相手の痛みとか気持ちに配慮しない、そういう上辺だけの友人とは関わりを持たないようにしている。
そりゃあ、こちらも大人ですから、「お前とは絶交だ」とか「もう逢わない」なんとこと言ったりはしない。そこまで他人を傷つけるつもりもないし、争って醜く罵り合うのも後味が悪い。
ただ、自然にこちらからフェイドアウトする、ソフトに、しかも自然に・・・。
そういう態度を取り続けると、相手もそのうち感じるようで、そのうち遠ざかる。当然、どこかで会うと、それなりの会話は互いにちゃんと交わしますが。
億劫なのである。
無理して付き合うほど人生なんて長くない。
ならば、本当に友人だと思うような、気心の知れた何でもストレスなく話し合える、そんな友人関係を保ちながら残りの人生を楽しく生きてゆきたい。
それだけなのだ。シンプルに言っちゃうと。
ところがである。
親子の関係だけは絶対そうはいかない。
親は子を、そして子は親を、一生見続けていかなくてはならない。最後まで保護をし、何があっても命を掛けて守り、子は親を頼り、信頼し続けてゆく。
もしも、その信頼関係が瓦解したとしたら・・・。
そこから、最悪の悲劇が訪れたとしたなら・・・。
映画「少年は残酷な弓を射る」の原題は「We Need to Talk about Kevin」である。
「ケビンのことについて、ちゃんと話し合わなければ」・・・そんな感じになるのだろうか。
そしてこの原題が、この映画の全てを語っている。
イギリスの女性文学賞であるオレンジ賞を受賞した、ライオネル・シュライバーの小説を映画化したのが「少年は残酷な弓を射る」だ。
彼女の小説、一度も読んだことがありません。
映画「フィクサー」のティルダ・スウィントン(この映画、彼女が母親を演じたことで凄味がさらに増したのではないだろうか)が主役だけじゃなく、製作総指揮も担当している。
監督はリン・ラムジー。ただし、僕はこの監督の他の作品を観たことがない。今作が初めて。
女流作家エヴァ(ティルダ・スウィントン)は、夫(ジョン・C・ライリー)との間に子供が生まれる。
ケビンという名のその可愛らしい息子は、幼い頃から母親にだけ何故か反抗を繰り返し、深く心を閉ざす。
やがて、エヴァに長女が生まれる。
しかし、ケビンはそのいたいけな妹を虐め、母親への反抗も止めず、父親だけには笑顔をみせて親密な関係性を築いてゆく。
美青年へと成長したケビン(エズラ・ミラーが演じているのだが、何とも妖しく冷徹な役柄を見事に演じていて、この若手男優もまた映画に不気味な存在感を持たせている)は、すべてをぶち壊す、凄まじい事件を起こしてしまう・・・。
重苦しい映画である。
過去と現在が、何度も行ったり来たりを繰り返す。
映像も、ひんやりとした緊迫感に漲っていて、青年となったエズラ・ミラーが登場するあたりで映画自体はひとつの頂点を迎える。
印象的なシーンがある。
ケビンが、長女を抱っこした母親と産婦人科のベッドの上で対面するシーンだ。
母親が笑って、生まれたばかりの赤ん坊をケビンの前に差し出すのだが、長女を初めて見たその瞬間、彼は冷酷な顔を浮かべながら、目の前の赤ん坊の顔に、濡らした指で赤子の顔面へ水を弾くのである。
突然、泣き叫ぶ赤ん坊・・・。
とても不気味で怖いシーンだ。
最後に映画は、邦題のとおり「少年は残酷な弓を射る」ことになる。
なんとも重い感情を引き摺る映画ではある。
ここに当然、カタルシスなど微塵も無い。