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淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

中島義道「人生、しょせん気晴らし」は、哲学者である中島節が全開している。

2009年07月15日 | Weblog
 『人は誰も、もうじき死んでしまい、永遠の無が訪れるのだから、何をしても虚しいだけである。何をしても、何を成しても、どうせみんな死んでゆく・・・』

 中島義道が語る哲学には、いつも同じ河が流れている。
 それは、ゆったりとした熱帯を優雅に流れる豊潤な大河ではない。それは、暗鬱な空から時折降って来る冷たい雨を飲み込みながら、厳寒の荒野を寡黙に流れる北の大河である。

 彼の書いた本は、ほとんど読んできた。
 「人生を〈半分〉降りる」、「死を哲学する」、「孤独について」、「ぐれる!」、「どうせ死んでしまう・・・私は哲学病」、「狂人三歩手前」などなど。

 中島義道は、半隠遁を説く。
 どうせ人間はこの世界から消え、いずれ「無」になってしまうのだから、自分のしたくないことは一切せず、世間から半分だけ降りることにしよう。俗世間からすべて降り切ることは、山ごもりでもしない限り無理なのだから、妥協案として「半分」だけ人生を降りることにしよう。
 だから、半隠遁生活を送っていこうというものである。

 そして今回、彼は「人生、しょせん気晴らし」を出した。
 早速、読んでみた。

 相変わらずの中島義道節が炸裂している。
 「どうせ死んでしまうのだ。それなのに、なんで生きるのか?」。彼は、子どもの頃に感じたその呪縛から、今になっても抜け出せないでいると吐露する。
 だから、すべては気晴らしでしかないのだと。

 昔、サマセット・モームの「人間の絆」を読んで、そこに漂う仏教的な匂いにいたく感動した覚えがある。
 主人公が、様々な苦難に見舞われながら、その最後に辿り着く「悟り」のような心情吐露の箇所を何度も何度も読み返したものだ。

 「生きることに意味など無い。ただ偶然と偶然が重なっただけで生まれた宇宙の中のちっぽけな地球だって、いずれ消滅して跡形もなく消えてゆく。それだけのことだ。すべては移ろい変わってゆく。永遠なるものなど一切ない。その一瞬の永遠の中で、人は生き、そして必ず死んでゆく。意味などない・・・」

 しかし、それでも僕たちは生きていこうとする。
 ブッタは言った。一切は無だと。色即是空だと(勿論、それらはブッタ亡き後、様々な解釈で高名な弟子たちが我々に語り掛けてきた言葉ではあるのだけれど)。

 悟りたいとは思わない。
 否、悟りたいとは心底思うけれど、絶対にそんなことは無理だ(と思う)。
 ならば「人生、しょせん気晴らし」だと、言い切ってみることもまた生きてゆく戦略上、必要なのかもしれない。

 でもなあ。
 何で、こうも悩み続けるのだろう。
 俺って、考える事が好きなんだろうか。解らなくなってしまう。



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