西村賢太の私小説って、なんであんなに滅茶苦茶面白いんだろう。
このひと、自分の恥ずかしい裸体を世間に曝け出しているようにさえ思える。
それが私小説なのだと言ってしまえばそれまでの事だけど・・・。
中卒で、東京生まれ。
西村賢太のこれまで書かれた何編かの小説を読んでゆくうちに徐々に解って来ることだが、彼の父親は猥褻に関する重い罪で彼が小さい時分に逮捕されている。
それが原因で彼の両親は離婚し、まるで世間から身を隠すようにして暮らしていたらしい。
西村賢太は、高校に進学することなく、肉体労働で幾ばくかの金を稼ぎ、定職にもつかず鴬谷の三畳一間のアパートで暮らしていた。
これも、彼の小説を読んで解った事だけれど、何度も家賃が払えず、夜逃げ同然で逃げ出し、都内の安アパートを転々していたともいう。
それでも風俗通いが止まらず、稼いだ金は酒と風俗にすべて消えてしまうのである。
何故、西村賢太の私小説にこんなにも惹かれるのか?
それは、その中に自分自身を垣間見るからである。
なにも、彼と同じような人生や経験を歩んで来たわけではない。
しかし、彼の私小説の中の主人公(西村賢太自身ということになるわけだが)は、行き着くところ、結局おのれ自身ということになってしまうのだ。
そのだらしなさ、その小心者としての慌てぶり、そのどうしようもないプライドの高さとそれとは真逆のコンプレックス、その見栄と偏屈と呆れるくらいの滑稽さ・・・。
自滅的で、懐疑的で、悲観主義者で、捻くれていて、女々しいくらいに依存的である。
どうしようもないほどの糞ったれなのだ。
「どうで死ぬ身の一踊り」、この講談社文庫から出ている私小説短編集もまた滅茶苦茶面白い。
正直に告白すると、『他人の不幸は蜜の味』。
そういう邪(よこしま)な心もないわけではない。
自分が苦しいから、他人がもがき苦しむ姿を読んで、安心する。少し元気になる。
俺も、そんな小市民の一人なのである。
どうしようもない。
救いようがない。
講談社文庫の「どうで死ぬ身の一踊り」は、三篇の小説が収められている。
表題の「どうで死ぬ身の一踊り」、あとは「墓前生活」と「一夜」である。
大正時代に東京の芝公園で、真冬に狂死した無頼の作家、藤澤清造。
その極貧の中で死んでいった作家を敬愛し、毎月のように北陸の七尾にある菩提寺にまで出掛けて供養を行い、果ては藤澤清造の墓標を寺から譲り受け、アパートの部屋に立てかけている西村賢太の生活が、短編「墓前生活」の中で綴られてゆく。
それから「どうで死ぬ身の一踊り」。
この小説もまた凄い。
やっと巡り合った女性に恋焦がれ、同棲まで漕ぎ着けたのにちょっとした口論から暴力を揮ふるい、殴る蹴るの大怪我を負わせる。
それに耐え切れず、愛想を尽かした女が着の身着のままで逃げ出すと、実家まで追いかけてゆき、女の前で土下座して涙を零し「もう絶対にしないから戻って来て欲しい」と復縁を哀願する。
「これが最後」と女は復縁するのだが、また殴る蹴るの暴行を重ね、自責の念に駆られ悶々とする・・・。
読んでいるうちに、やるせなくなるのだが、会話が妙にユーモラスなので最後まで一気に読んでしまう。
とにかく、騙されたと思って一度読んでみてほしい。
特に今回の文庫では、最後の短編「一夜」が途轍もなく素晴らしい。
ここでも、同棲した女との徹底した痴話げんかと暴力の断片が語られてゆくのだが、2人の遣り取りの描写が素晴らしく、ラストのいきなりナタでぶった切ったような終わり方も凄い。
ここには、男のどうしもないだらしなさと、惨めさと、女への絶え間ない依存と、そして未練がある。
どうしようもない生き物なのだ。
男って奴は!
このひと、自分の恥ずかしい裸体を世間に曝け出しているようにさえ思える。
それが私小説なのだと言ってしまえばそれまでの事だけど・・・。
中卒で、東京生まれ。
西村賢太のこれまで書かれた何編かの小説を読んでゆくうちに徐々に解って来ることだが、彼の父親は猥褻に関する重い罪で彼が小さい時分に逮捕されている。
それが原因で彼の両親は離婚し、まるで世間から身を隠すようにして暮らしていたらしい。
西村賢太は、高校に進学することなく、肉体労働で幾ばくかの金を稼ぎ、定職にもつかず鴬谷の三畳一間のアパートで暮らしていた。
これも、彼の小説を読んで解った事だけれど、何度も家賃が払えず、夜逃げ同然で逃げ出し、都内の安アパートを転々していたともいう。
それでも風俗通いが止まらず、稼いだ金は酒と風俗にすべて消えてしまうのである。
何故、西村賢太の私小説にこんなにも惹かれるのか?
それは、その中に自分自身を垣間見るからである。
なにも、彼と同じような人生や経験を歩んで来たわけではない。
しかし、彼の私小説の中の主人公(西村賢太自身ということになるわけだが)は、行き着くところ、結局おのれ自身ということになってしまうのだ。
そのだらしなさ、その小心者としての慌てぶり、そのどうしようもないプライドの高さとそれとは真逆のコンプレックス、その見栄と偏屈と呆れるくらいの滑稽さ・・・。
自滅的で、懐疑的で、悲観主義者で、捻くれていて、女々しいくらいに依存的である。
どうしようもないほどの糞ったれなのだ。
「どうで死ぬ身の一踊り」、この講談社文庫から出ている私小説短編集もまた滅茶苦茶面白い。
正直に告白すると、『他人の不幸は蜜の味』。
そういう邪(よこしま)な心もないわけではない。
自分が苦しいから、他人がもがき苦しむ姿を読んで、安心する。少し元気になる。
俺も、そんな小市民の一人なのである。
どうしようもない。
救いようがない。
講談社文庫の「どうで死ぬ身の一踊り」は、三篇の小説が収められている。
表題の「どうで死ぬ身の一踊り」、あとは「墓前生活」と「一夜」である。
大正時代に東京の芝公園で、真冬に狂死した無頼の作家、藤澤清造。
その極貧の中で死んでいった作家を敬愛し、毎月のように北陸の七尾にある菩提寺にまで出掛けて供養を行い、果ては藤澤清造の墓標を寺から譲り受け、アパートの部屋に立てかけている西村賢太の生活が、短編「墓前生活」の中で綴られてゆく。
それから「どうで死ぬ身の一踊り」。
この小説もまた凄い。
やっと巡り合った女性に恋焦がれ、同棲まで漕ぎ着けたのにちょっとした口論から暴力を揮ふるい、殴る蹴るの大怪我を負わせる。
それに耐え切れず、愛想を尽かした女が着の身着のままで逃げ出すと、実家まで追いかけてゆき、女の前で土下座して涙を零し「もう絶対にしないから戻って来て欲しい」と復縁を哀願する。
「これが最後」と女は復縁するのだが、また殴る蹴るの暴行を重ね、自責の念に駆られ悶々とする・・・。
読んでいるうちに、やるせなくなるのだが、会話が妙にユーモラスなので最後まで一気に読んでしまう。
とにかく、騙されたと思って一度読んでみてほしい。
特に今回の文庫では、最後の短編「一夜」が途轍もなく素晴らしい。
ここでも、同棲した女との徹底した痴話げんかと暴力の断片が語られてゆくのだが、2人の遣り取りの描写が素晴らしく、ラストのいきなりナタでぶった切ったような終わり方も凄い。
ここには、男のどうしもないだらしなさと、惨めさと、女への絶え間ない依存と、そして未練がある。
どうしようもない生き物なのだ。
男って奴は!