私は、歌詞(ことば)で、人になにかを伝える。
日本で歌うから、日本語で歌う。
というか、フランス語わからないし・・・
フランス語わかる日本人も
そんなにたくさんいるわけじゃない・・・と思う。
だから、日本語で歌う。
英語の歌は、たま~に唄う。
今度歌う機会があったら、訳詞をお客様には配るとしよう。
たとえば、鹿児島弁を私が聞いて、話をしながら、途中わからないと
そこに思考が立ち止り、あれ?今なんて言ったんだろう???となり、
あまり気持ちよくないし、
わかるはずの次の言葉が耳に入ってこなかったりする。
ライブやコンサートに来るお客様が、
私の歌を聴きながら、同じ状態になるのは困る。
だって、私は伝えるために、歌っているのだから。
次回からは、訳詞を添えることにしよう・・・
おととい・・・先生から「歌詞をしっかりね」と言われた。
急きょ、私が『今、歌いたい歌』を5月のプログラムに
どうしても入れてもらいたいと無理なお願いをした。
その時「音の事は気にしないで、歌詞をしっかりね」といわれ「はい」と答えた。
それは、覚えると言うことではない。
覚えることは、『しっかり』ということではない、当たり前。
覚えたその先・・・が、大切なんだ。
そんなことを考えていた。
その日、Yさんにも同じようなことを言われた。
「邦子はコトバだよ、コトバ。」
「音はどうでもいいと言ったら言い過ぎだけど、どうでもいい」
「音を外したとしても、そこに真実があれば、嘘じゃなければいいんだよ」
そんなふうに言われた。
同じ日に、二人の人から、同じようなことを言われた。
ずっと、私も思っている事。
でも、たやすくはない。
メロディーがあり、リズムがある・・・
「上手く歌いたい」「綺麗に歌いたい」と
バカな、無用な、邪魔な思いが頭をかすめる。
なんて浅はかなんだろう。
聴いている人に褒めてもらいたいなんて、
そんな考えなら、やめちまえ!って思う。
それなのに、心の片隅で、
少しだけ「上手く」とか「綺麗に」とか思うんだな・・・
私の中でこの魔物は、退治しやすい小さな魔物だけど、いないわけじゃない(^^ゞ
何度も書いているけれど、私は歌が好きなわけではない。
表現したいことがあって、今、私はそのツールとして歌を選んでいる。
何度も書いているけれど、私は歌が得意なわけじゃない。
今の私の生活のスタイルの中で、表現するツールが歌なんだと思っている。
苦手なことだから、うんと頑張る。うんと努力する。
そして、小さな魔物と対峙しながら、
私が何をしたいのか・・・を考えて、
コトバを伝えるということに、たどり着く。
そして、そのコトバ・・・という奴が厄介で、
好きなのに嫌いと言ってしまったりするわけで、
字面の意味だけではないなにかを探し始める。
歌い手は、結末を知っているから、結末を初めから説明したような歌を唄う。
せっかく時間がそこに流れているのに、
初めから、ラストの感情を説明するための時間にしてしまう。
情けない、安易な『歌』になってしまう。
コトバを音として伝えれば、気持ちを表現できたと思って安住してしまう。
そんな『歌』にはしたくない。
おととい、二人の人から、同じようなことを言われた。
音はどうでもいい・・・
それは、音は、ピアニスト(先生)に任せればいいということだ。
つまり、自由に、心のままに、言葉と向き合って・・・語る。
それが、音楽的におかしければ、レッスンで指摘されて修正することになる。
歌が好きでも得意でもないんだもの、音楽的にどうかなんて考えても答えは出ない。
その部分は、全部お任せ。
でも、そこをお任せする分、私は、真摯にコトバと向き合わなくてはね。
その分、指摘された時に対応できる状態にしておかないとね・・・
毎日、発声練習をして、身体をキープして鍛えないとね。
私は、表現することが好きだ。
表現するツールとして、歌を選んでまもなく5年になる。
歌が好きではない・・・と言いながら、歌うことは好きになりつつある。
それは、私のカタチが少しずつ見えてきているからなのかもしれない。
あと5年たったら、どんな私になっているのだろう・・・
さぁ・・・今日も声を出すことから始めましょう。
あらてめて、歌詞(ことば)と向き合う日々・・・な私です。
日本で歌うから、日本語で歌う。
というか、フランス語わからないし・・・
フランス語わかる日本人も
そんなにたくさんいるわけじゃない・・・と思う。
だから、日本語で歌う。
英語の歌は、たま~に唄う。
今度歌う機会があったら、訳詞をお客様には配るとしよう。
たとえば、鹿児島弁を私が聞いて、話をしながら、途中わからないと
そこに思考が立ち止り、あれ?今なんて言ったんだろう???となり、
あまり気持ちよくないし、
わかるはずの次の言葉が耳に入ってこなかったりする。
ライブやコンサートに来るお客様が、
私の歌を聴きながら、同じ状態になるのは困る。
だって、私は伝えるために、歌っているのだから。
次回からは、訳詞を添えることにしよう・・・
おととい・・・先生から「歌詞をしっかりね」と言われた。
急きょ、私が『今、歌いたい歌』を5月のプログラムに
どうしても入れてもらいたいと無理なお願いをした。
その時「音の事は気にしないで、歌詞をしっかりね」といわれ「はい」と答えた。
それは、覚えると言うことではない。
覚えることは、『しっかり』ということではない、当たり前。
覚えたその先・・・が、大切なんだ。
そんなことを考えていた。
その日、Yさんにも同じようなことを言われた。
「邦子はコトバだよ、コトバ。」
「音はどうでもいいと言ったら言い過ぎだけど、どうでもいい」
「音を外したとしても、そこに真実があれば、嘘じゃなければいいんだよ」
そんなふうに言われた。
同じ日に、二人の人から、同じようなことを言われた。
ずっと、私も思っている事。
でも、たやすくはない。
メロディーがあり、リズムがある・・・
「上手く歌いたい」「綺麗に歌いたい」と
バカな、無用な、邪魔な思いが頭をかすめる。
なんて浅はかなんだろう。
聴いている人に褒めてもらいたいなんて、
そんな考えなら、やめちまえ!って思う。
それなのに、心の片隅で、
少しだけ「上手く」とか「綺麗に」とか思うんだな・・・
私の中でこの魔物は、退治しやすい小さな魔物だけど、いないわけじゃない(^^ゞ
何度も書いているけれど、私は歌が好きなわけではない。
表現したいことがあって、今、私はそのツールとして歌を選んでいる。
何度も書いているけれど、私は歌が得意なわけじゃない。
今の私の生活のスタイルの中で、表現するツールが歌なんだと思っている。
苦手なことだから、うんと頑張る。うんと努力する。
そして、小さな魔物と対峙しながら、
私が何をしたいのか・・・を考えて、
コトバを伝えるということに、たどり着く。
そして、そのコトバ・・・という奴が厄介で、
好きなのに嫌いと言ってしまったりするわけで、
字面の意味だけではないなにかを探し始める。
歌い手は、結末を知っているから、結末を初めから説明したような歌を唄う。
せっかく時間がそこに流れているのに、
初めから、ラストの感情を説明するための時間にしてしまう。
情けない、安易な『歌』になってしまう。
コトバを音として伝えれば、気持ちを表現できたと思って安住してしまう。
そんな『歌』にはしたくない。
おととい、二人の人から、同じようなことを言われた。
音はどうでもいい・・・
それは、音は、ピアニスト(先生)に任せればいいということだ。
つまり、自由に、心のままに、言葉と向き合って・・・語る。
それが、音楽的におかしければ、レッスンで指摘されて修正することになる。
歌が好きでも得意でもないんだもの、音楽的にどうかなんて考えても答えは出ない。
その部分は、全部お任せ。
でも、そこをお任せする分、私は、真摯にコトバと向き合わなくてはね。
その分、指摘された時に対応できる状態にしておかないとね・・・
毎日、発声練習をして、身体をキープして鍛えないとね。
私は、表現することが好きだ。
表現するツールとして、歌を選んでまもなく5年になる。
歌が好きではない・・・と言いながら、歌うことは好きになりつつある。
それは、私のカタチが少しずつ見えてきているからなのかもしれない。
あと5年たったら、どんな私になっているのだろう・・・
さぁ・・・今日も声を出すことから始めましょう。
あらてめて、歌詞(ことば)と向き合う日々・・・な私です。