うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

年頭雑感

2019年01月03日 | 日記・エッセイ・コラム

喪中につき新年のあいさつは欠礼とさせていただきますが、今年もよろしくお願いいたします。

喪中とはいえ、家族と過ごすという意味では例年とそう大きな違いはないです。寺社仏閣にはいかないですけど。。

めずらしくテレビはよく見た。

紅白をみて、松田聖子の声がずいぶん低いのに驚いたり、そのあと見た「ねほりん・はほりん」ではもと極道の方がゲストで、翌朝みたBSドキュメンタリーはヒトラー総統の特別列車で、う~ん、正月っぽくないかも、とおもったり。

同じくBSでは夜、ユヴァル・ノア・ハラリ教授のベストセラーを基にしたドキュメンタリーを見る。この番組に限らず、AIをモチーフに取り上げた番組が、今年は目だった。この時期、未来像を描く番組がおおくなるし、AIは流行語みたいになっていたからまあ、当然かもしれないが。

番組では人間のもつ「知性」「意識」のうち、「知性」がますます重視されるようになるのがAI社会だ、と指摘していた。「意識」というのは、ふつうでいう心のことらしい。

村上春樹「世界の終わりとハードボイルと・ワンダーランド」、ここでは何度も取り上げるのでしつこいと思われるかもしれないが、ここで出てくる「僕」は、「心」を捨てて永遠の生と安定した生活を得ようとしている。しかし、それは自らが望んだことではない。もう一方の自分である「私」は、自分自身の不完全性を理解し、それを克服する努力をしてきたことを認めながらも、なにかを失い続ける自分こそが、本当の自分なのだと思い強い愛着を示す・。

そんなことを思い出した。

同じく番組で取り上げられていた、一部の階層が自分たちの遺伝子を改良して、特別な能力を身につけ社会に有用な人材となり、それができない(従来からの)一般の人々は、社会から必要とされない階層に墜ちていくのではないか、い議論。ちょうど翌日に再放送していた、サンデル教授の白熱教室にも通じるテーマだ。いまここでなにかコメントすることは難しいが、人間よりもそれ以外の生き物のほうがもっと過酷ですよね。。ペットとして溺愛されるわんこがいる一方で、殺処分されるたくさんの犬猫、農家の人に愛情をかけられながら、結局食べられてしまう牛、豚。

「世界の終わり-」では、「私」は最後には現実を受け入れ、皆に祝福を与えながら現生を終える。祝福を与えるにあたり、そんな権限があるのか一瞬迷うが、どうせすぐいなくなるのだから構うまいと割り切る。「僕」は、心を失うことを拒否し、「森」で過酷な人生を歩むことを選択する。。


 

年末、学生時代の友人と忘年会を開いた。本当を言うと、長いこと僕は彼らと会うのが苦手だったのだ。彼らは社会の中、家庭の中でそれなりに地位を得、その達成度を昔の仲間と会うことで確認しようとしているのではないか、と思っていた時期があり、なんだか気が重く感じていた。

が、会ってみると、そんな感覚はだんだん消えていった。我々は皆自分たちの歴史を重ね、それを他と比較する必要もなければ、相手の歴史を評価する必要もない。当たり前のことだが。


 

毎日定期的に訪れているサイト、ブログの多くが、昨年更新を終了した。なんの予告もなく更新がとまってしまったものが多いが、自らこれで終わりにします、と宣言したサイトもある。長く停止していて、そろそろ再開すると言ってしばらく続けたうえ、また止まってしまったところもある。それぞれに事情があるのだろう。ネット社会は移ろいやすいし、消えてしまえば記憶の片隅に残るだけで、紙の本のように見返すこともほとんどできない。

自分のことはわからないけど、まあとりあえず淡々と続けていきますか。。


 

 

毎年続けてきた七福神めぐりも、今年は行くことができない。が、蕎麦屋さんにだけは行ってきた。

ちょうど1年前、出かける前に既に施設に入っていた父に挨拶に行き、エレベーターまで見送ろうとして職員に制されていた姿が瞼によみがえってきた。

扉が閉まるまで、こちらを見続けていた。

1/3 追記:今年の初誤字、やっちゃいました。。念頭⇒年頭でございます。。

コメント
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