カズオ・イシグロは日本ではそれほどよく知られた存在ではないかもしれない。海外で活躍する同胞が好きな日本人にしては珍しいことだ。邦訳が新潮、文春などのメジャー出版社ではなく、早川書房から出ていることも、何となくマイナーな印象を強めている。とはいえ、僕が「浮世の画家」の文庫本を手にしたのは、地元の本屋だったから、それなりに読者は広がりつつあるのかな。
イシグロは1954年に長崎県で生まれ、5歳の時に海洋学者の父の仕事の関係で渡英、日本と英国の二つの文化を背景に育つ。本書は1986年に発表され、英国でウィットブレッド賞を獲得した。
終戦直後の日本。かつては日本精神を鼓舞する画風で一世を風靡した画家小野は、戦後画業を引退し、末の娘の縁談に心を悩ます。物語は一貫して小野のモノローグで語られる。
小野は、終始淡々と彼と彼を取り巻く人々とのやりとりを語っていく。読者ははじめ、時に退屈すぎるほど平板で淡々とした語り口に、枯淡の境地に達した老人を思い浮かべながらページを繰っていくだろうが、やがて奇妙な違和感や居心地の悪さに気がついてくる。
舞台が日本の、戦後すぐの世界であることなどから、日本人である我々には先入観が邪魔してしまい、意外と読みにくい小説なのかもしれない。大戦の前後をテーマにした小説は、三島由紀夫や五木寛之など、有名な作品が目白押しだが、本作が主眼とするテーマは、そうした作品達とは根本的に視点が異なるようだ。巻末の小野正嗣氏の解説がとても見事で、これほど的確なことは僕には書けない。
イシグロの作品群を貫く中心的な主題があるとすれば、それは語り手の「記憶」の曖昧さ、より正確に言えば、その記憶の中で知覚され、認識された「現実の不確実性である。(中略)過去を語ること、語らずにはおられないことには、重なり合う二つのことが前提とされる。一つは、現在の自分がよくわからないと言うこと、そしてもう一つは、私達の今この瞬間の「自己」は、過去における「自己」との「連続性」によって構築されているという確信である。
画家小野は、戦争によって自らのキャリアと人生に大きな影響を受けた。戦前にあっては大きな名声と富を得、戦後にかけて妻と息子、さらには弟子達、かつての名声を失った。今も彼は健康であり、行く末を案ずるべき娘もいる。日々とるべき行動のよりどころとして、一体自分は何者なのか、何を行い何を得てきたのか、自らを振り返り記憶を再構築することが必要になる。
記憶とは一体何なのか?それこそ、のど元過ぎれば熱さ忘れるのごとく、今置かれた立場によって過去の記憶の位置づけは、生きている限り常に変動していくものだ。昔は毎日が辛いと思っていたのに、考えてみればあの頃は若かったし、いまよりずっと恵まれていたのに、自分でそれを気がつかなかったんだな、と思う経験は、誰にでもあるのではないか。
そこには、今の自分の意思が強く影響する。今の自分の立場から、過去を否定的にとらえる、あるいは、自分の経験のある部分だけを取り出し、不都合な部分は思い出さないようにするということも、自分が認めうる範囲で自由だ。というより、自分の意思自体は、自覚できず、自分にとっては何の抵抗もなく、「真実」と受け取れてしまうのかもしれない。
もちろん、周辺の人たちの記憶を、自分の都合で動かすことはできない。だから、自分と周囲の人たちとのやりとりから、そうした自分の世界との「歪み」が、少しずつ浮かび上がってくる。
本作は、そのわずかな「歪み」を巧みに見せながら、読者が読み進むうちに主人公小野益次の姿が、3D画像のように少しずつ立体的に見えてくるように導く。最初は曖昧模糊としていたものが、くっきりと見えてくるその手法は見事なものだ。
小野の自己認識はどの程度読者の共感を得られるのか。あるいは若い読者には理解できないか、老人特有のものと思われてしまう可能性はある(とはいえ、イシグロ氏は本作を32歳の時に書いているのだが)。更に言えば、老齢に達してから初めて触れたときに、果たして受け入れられるかもわからない。
僕自身のことをいうと、自分史の書き換えみたいなことは、しょっちゅうやっている気がする。環境が変われば、自分なるものは簡単に変わってしまうものだ。時には相手の期待する自分観を「演じる」事だってあるし、それにふさわしい過去を語ることもある。それで良い、というより、そういうものなのだと思う・・。
本作は5年ぐらい前、原語で読んだ。そのときの感想は、なんだかもわっとした、蝶々夫人的オリエンタル趣味の本なのかな?という感想でしかなかった。なんだか、自分の語学力のなさにすごく落胆する・・。