60歳からの視覚能力

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遠近法は左脳の働き

2008-02-10 22:15:30 | 眼と脳の働き

 図はこれもデューラーの版画で、遠近法を使って壷を描いている様子が示されています。
 透明な画面なら、それを通して見えた立体的な像をそのままなぞれば、正確な輪郭を写し取れるだろうと普通は思います。
 見えたままを写し取るのですから、正しい輪郭が描けるはずだと思うのですが、実際にそうしようとしても、なかなかうまくいきません。

 実際に透明な画面を通してモノを見ながら、透明な画面上で輪郭をなぞろうとしても、目が動いてしまうと見え方が変わってしまうために、うまく輪郭をなぞることができません。
 この版画に描かれた画家は、後ろの壁に紐を固定し、紐をまっすぐに伸ばした先に筒を着けその筒を覗きながら輪郭をなぞっています。
 紐は視線の代わりで、画家が目の位置を動かしても、紐をピンと張り、筒を張った紐に合わせて、筒を除けば固定されたいちからの線上にあるので、ひもをこていした位置から見た輪郭を描くことができます。
 つまり画家の目の位置を固定する代わりに、後方の固定した視点を設定しているのです。
 
 また筒を通して見ているので、当然片目で見ているわけであり、両眼で見たときのようにペン先や壷が二重に見えたりすることがありません。
 両眼で見るとペン先を見ると壷が二重に見えますし、壷のほうを見るとペン先が二重に見えて輪郭が描きにくいのですが、片目で見れば二重には見えなくなって正確な輪郭が描けます。
 これはちょうど鉄砲を撃つとき、片目を閉じて照準を当てて狙いをつけるのと同じ要領です。

 人間の目はカメラとは違うために、見えたままを平面の紙に写し取るということは如何に大変かということが分ります。
 E.エドワーズ「脳の右側で描け」では人間は左脳で、ものの形はこうだという固定観念で考えるために、正しい輪郭が描けないのだといっていますが、そうではないことが分ります。
 見えたままに描こうとしても、視線や焦点が変化するために見え方が常に変わるので、うまく描けないのです。
 遠近法は写真を撮るように、視線や焦点を固定させる方法を考えて実施するというのですから、まさに左脳の働きにしたがって描くことになります。
 
 芸術は右脳のはたらきだという固定観念があるために、正しい輪郭の絵を描くときは右脳がはたらいていると思ったのでしょうが、実際は違います。
 そういえば音楽の場合もプロの音楽家は、音楽を聞いているときは左脳が働いているということですから、芸術イコール右脳と無理に思い込むべきではないのです。


右脳と遠近法

2008-02-09 23:35:52 | 視角と判断

 三次元の世界を絵のように平面に描こうとすると、モノの輪郭を正確に描くことがとても困難です。
 B.エドワーズ「右側の脳で描け」には正確な輪郭を描く方法として、窓ガラスを通して見た風景を写し取る方法を紹介しています。
 格子状の窓ガラス越しに風景を見ると、窓ガラスの格子とモノの輪郭の位置関係が見えるので、これをそのまま画面に描けば、モノの輪郭が正しく反映されているからです。
 
 三次元のものの輪郭を平面に正しく描く方法として、格子越しに見える像を利用するという方法は、すでにルネッサンスの時代に考えられています。
 図はデューラーの「ヌードを描く図」という版画で、モデルと画家の間に格子状の枠が垂直に立てられています。
 机の上には垂直に立てられた枠二対応した格子の線の入った紙が置かれ、画家は垂直の格子を透して見た輪郭を、机の上の紙に描いています。
 画家の目の前には一本の棒が立っていて、画家は棒の先端に片方の目を合わせて前方を見ています。
 
 これは目の位置を固定させるためで、目を動かしてしまうと格子とモデルの輪郭の位置関係が変わってしまうためです。
 たとえば窓ガラス越しに見える風景を、ガラスの上に直接なぞって輪郭を描こうとしても、目の位置を変えてしまうと見え方が変わってしまうのでうまくいきません。
 見え方を変えないためには目を動かしてはいけないので、目の位置を固定するために棒を立てているのです。

 またこの図では右目で前方の枠を見ているようですが、これは片方の目で見ないと近い場所にある枠に焦点をあわせれば、モデルはダブって見えてしまうからです。
 両眼で見れば、手前にある垂直の格子に焦点をあわせるとモデルがダブって見え、モデルに焦点を合わせると格子がダブって見えてしまいます。
 また焦点を一定にしないとものの見え方が変わってしまうので、モデルのほうに焦点を合わせるのではなく、平面を作る格子に焦点を合わせてみているのです。

 このように厳重な規制を加えないと、写真のような正確な輪郭を平面には描けないのは、目がカメラのレンズとは違うからです。
 目の網膜は写真機のフィルムと違って、中心部分だけが解像度が高く、中心から少し離れた部分は視神経がまばらで解像度が極端に低くなっています。
 ものを見るときにはまた常に目を動かし、また焦点距離を変えて見ているの、カメラのように焦点を固定し、方向を固定して見ているわけではありません。
 カメラで写したような正確な輪郭を描こうとすれば、カメラのような見方をしなければならないのです。
 右脳で見れば写真のような正しい輪郭が描けるというのは誤解で、視点や焦点を固定させればよいのです。


意味が分からなくても脳が活性化

2008-02-05 22:41:51 | 文字を読む

 図は、川島隆太「脳を育て、夢を育てる」からで、上は大学生が一桁の足し算を二秒に一回ずつのゆっくりした速さで解いているときの脳のはたらきで、下は一生懸命速く解いているときのものだそうです。
 ゆっくり解いているときは脳はあまり働かず、前頭前野もわずかにしか働いていません。
 簡単な計算で脳が活性化するというのも、ゆっくりではダメで速くやらなければ脳は働かないというのです。
 つまり計算自体で脳が活性化するというより、スピードを上げるということのほうが大きな役割を占めているということのようです。
 ちょうどゆっくり歩くより振るスピードで走ったほうが、エネルギーを使い汗をかくというようなものです。

 それでは一桁の計算のように簡単なものでなく、複雑な計算をすればもっと脳が働くのかというと、そうではなく逆に左脳の一部しか働かないという結果が出ています。
 だから複雑な計算をするより簡単な計算を速くやったほうが、脳が鍛えられるということのようですが、それはオカシイと思うのが常識でしょう。
 簡単な足し算を速いスピードでやれば脳が鍛えられるというので、そればかりやっていてはいつまで経っても数学的な能力は向上しないからです。
 複雑な計算をするときは、集中するので脳が余分なところまで活動しないのであって、広い範囲で脳が働くほうがよいと思い込むことに問題があるのです。

 同じように文章を音読するときも、ゆっくりよりも速く読むときのほうが脳がよくはたらくというわけで、前頭前野を鍛えるには速さが大切だとされています。
 それでは複雑で難しい文章を読んだ場合はどうかというと、なぜかそういうテストはしないで、代わりに無意味な文章を読んだときの血流量が調べられています。
 この場合は意味がある文章を読んだときと血流量は変わらないそうですから、おそらく複雑で難しい文章を読んでも変わらないのでしょう。
 文章の場合は計算と違って、意味が分からなくても読むことはできるので、先に読み進むことができますから同じような結果となるのでしょう。

 計算にしろ音読にしろ、脳の血流量という量を問題にしていて、質的な問題は置き去りにされています。
 スピードを上げれば時間当たりのエネルギーの消費量が違うので、当然脳血流が増え、脳が働いたという形になるのですが、当たり前のことでそれ以上の意味があるかどうか分かりません。
 脳の血流量が増えているという現象を、脳が活性化しているという表現をするため、脳の血流量が多いほうが良いのだと、つい考えてしまうようです。


脳を活性化させる目的

2008-02-04 22:49:44 | 文字を読む

 図はE.ゴールドバーグ「老いて賢くなる脳」で認知活動と脳の活動領域の関係を図で表わしたものです。
 新しい課題に取り組むときは前頭葉が働き、右脳が特に活動します(A)が学習が進むにつれ右脳と左脳の使われ方が同じになり(B)、課題に慣れて習熟すると左脳が主に使われ前頭葉はあまり使われなくなくなります(C)。
 これは脳の活動をPETとかfMRIなどを使って調べた結果わかったということですが、常識的に知られている経験と一致しています。
 自転車の運転などを例にとっても、習い始めは頭も神経も使うのでくたびれますが、慣れるにしたがって楽にできるようになり、上達すればほとんど無意識のうちにできるようになり、余分な神経や力を使わなくなります。
 習い始めのときに比べると、技術が経験として蓄積され、余分なエネルギーを使わず効率的にできるようになるのです。

 ソロバンも習いたてのときは、脳が活発に活動して脳血流が増えるので、ソロバンは脳を活性化すると考えられたのですが、熟達した人の場合は省エネ的になり、脳は活性化しないので、ソロバン業界はがっかりしたそうです。
 なんによらず始めのときは脳は活発に動くけれども、技術が身につけば少しのエネルギーでできるようになるのですから本当はがっかりするのではなく、喜ぶべきことです。
 少しのエネルギーで楽に作業ができるようになれば、さらに高度の技術を学習して高度な作業を楽にこなせるようになります。
 いつまでも習い始めのときのように、簡単な作業をするのに脳を激しく使っていたのでは高度な作業はできません。

 本を読んだり簡単な計算をすると脳が活性化するということについても、慣れてくれば脳は活性化しなくなります。
 読書力や計算力が身についた段階でも脳を活性化しようとするなら、スピードを上げればよいのですが、これは目的と手段の取り違えです。
 たとえていえば歩いていては筋肉をあまり使わないというので、必要もないのに全速力で走るというようなことです。
 速く走ることが目的の場合でも、闇雲に手足を激しく動かせばよいというのではなく、合理的で運動効率の良い走り方を身につけようとするのが常道です。
 
 ゴールドバーグによれば、右脳から左脳への移行というのは、こども時代から青年期、壮年期、老年期と続いて起こる現象です。
 若いときは経験や技術の蓄積がないので、前頭葉や右脳を使わなければならないけれども、年をとれば経験や知識によって解決できることが多いので若いときより右脳とか前頭葉を使わずにすむというわけです(ただし全く新しいことに取り組まないとボケるかもしれません)。
 本を読むにしても、音読の速度を上げたりして無理に脳血流を増やすより、新しい分野の本を読んだり、少し難しい内容の本を読むことで脳を活性化させるほうがまともです。


右脳と新奇性

2008-02-03 23:29:26 | 文字を読む

 A.Martinなどの研究では、新しい情報が与えられたときは右脳が活発に反応するが、学習して慣れると右脳の活動レベルは低下して、左脳だけのはたらきに移行するとしています。
 ということは、同じ課題であっても人によって脳の働き方は違うということです。
 ある人にとっては新しい経験であっても、別の人にとっては慣れてしまっていて新奇性がないということがあります。
 たとえばソロバンなどは初めての人にとっては新しい経験ですから、脳が活性化するでしょうが、ベテランになれば脳をあまり使わないで使えます。
 考えてみれば当然のことで、学習して慣れた課題でも目いっぱいに脳を使っていては進歩がありません。
 上達すれば能率的に脳が働くので、初心者に比べれば脳血流が増えず、同じことをしても脳はいわゆる活性化はしないのです。
 
 仕事でも遊びでも、初心者のうちは簡単なことでも脳を目いっぱいに使うのでしょうが、経験を積むにつれて能率的にできるようになって、脳を少ししか使わなくてもできるようになります。
 学習するということは、脳を活性化することが目的ではなく、脳を使わないで課題を処理できるようになることです。
 ゲームに慣れた若者の脳が、ゲームをやっているときに活性化していないというのは当たり前のことで、そのことでゲームを否定するのはお門違いというものです。

 音読や簡単な計算をすると脳が活性化するといいますが、やはり慣れればあまり活性化はしなくなります。
 そこで音読のスピードを上げたり、計算のスピードを上げたりするのですが、脳を活性化するということが目標なら意味のないことです。
 脳血流を増やすということでなく、音読の速度を速めたり、計算速度を速めることが目的ならそれはその限りで意味があります。

 音読については黙読に比べれば、口を動かして発声して、その自分の声を評価することになるので脳を余分に使うことになります。
 音読をしたほうが意味が良く分るというのなら音読の効果がありますが、そうでない限り音読のほうがはるかにエネルギーを使うので、読書としては非能率的です。
 実用的な観点からすれば、音読しなくても意味が理解できるほうが効率的です。
 音読の癖がやめられなければ、まず読むときに声を出さず、口だけ動かして読んでみることです。
 声を出さない場合は、声を出す場合より速く読むことができますからそれだけでも音読に比べればましです。
 次の段階では口を動かさずに、心の中での音読に移行し、最後に心の中での音読をせずに、目で見るだけで意味を理解できるようになれば、エネルギーを使う量が少なく効率的になります。


脳の活性化と音読

2008-02-02 22:45:15 | 文字を読む

 上の図はM.E.レイクルの行った実験で、画面に示された名詞に対応する動詞を考えるという課題を行ったときの脳の血流量の変化を示したものです。
 初めて問題に取り組んだときが前頭葉の血流量が最も多く(a)、学習して慣れてくると(b)血流量はほとんどなくなっています。
 慣れてきたところで、新しい名詞に変えれば(c)血流量は増えるけれども初めてのときと比べると少なくなっています。
 これは陽電子放射断層撮影法(PET)による結果なのですが、常識的にも予想がつく結果です。
 最初に新しい問題に取り組むときは頭を使いますが、慣れてくれば楽にこなせるようになり、問題が変わっても原理が同じなら少しは余分に頭を使っても、まったく新しい問題に取り組むときよりは楽にこなせます。

 運動でも新しい動きをするときは筋肉や神経を余分に使ったりして苦労しますが、同じ動きをやっているうちに、余分な筋肉や神経を使わずに楽にこなせるようになります。
 キーボードで文字入力をするような作業でも、慣れないうちは苦労して神経も使いますが、慣れてくれば楽にこなせて神経も使わなくなるようになります。
 ソロバンだって習い始めの頃はアタマも筋肉も余分に使ってエネルギーを多く使いますが、上達者は初心者よりはるかに楽にこなします。

 このような例から考えると、脳の血流量が増えると脳が活性化していると単純に考えるのはおかしなことだと思い至ります。
 たとえば料理をすると脳の血流量が増えるという結果を得て、脳を活性化するには料理がよいなどと学者が短絡したことを言います。
 それなら主婦や料理人は、すばらしく脳が活性化している人々だということになりますが、必ずしもそうでないことは常識ですぐ分ることです。
 料理をしたことがない男性が料理を初めてやれば、脳や神経を多く使うというのは理解できますが、脳を活性化するために料理をするということになれば、本末転倒で正気の沙汰ではないでしょう。

 最近まで流行った音読をすれば脳が活性化するという説も、常識で考えれば偏った意見であることがすぐ分るはずです。
 音読をすることで脳が最も活性化するということなら、朗読家やアナウンサーなどが最も脳を活性化させている人々だということになりますが、そうとは限らないと常識があれば思うはずです。
 本を読むのは内容を理解したり味わったりするのが目的で、脳血流を増やすためとか、脳を活性化するためとかいうのは異常です。
 レイクルの実験が示しているのは、新しいことに取り組むときに前頭葉が使われるということで、人間は前頭葉が発達しているので、新しい課題に取り組む能力を持っているということです。
 なにも音読をしたり、簡単な計算をするために大きな脳を持つ必要はないのです。