60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

注意と瞬間的記憶

2007-12-15 23:06:13 | 文字を読む

 「心ここにあらざれば見れども見えず」というのは、目には見えても注意が向かわないと、目に映ったものが意識に上らないということです。
 スパーリングという心理学者はスクリーンに4×3個の文字を二十分の一秒表示していくつ覚えているか実験しています(図左側)。
 文字は一瞬だけ表示されて消えるのですが、12個の文字はすべて目に入っているのに記憶に残って答えられるのは平均すると4,5文字だそうです。
 普通は短期的に覚えていられるのは7±2個程度といわれているのですが、この実験のように瞬間的に表示されて消えてしまうときは4個程度なのです。
 
 12文字が見えたのに4文字程度しか記憶に残らないのは、二十分の一秒という瞬間的な表示では、注意が向けられる範囲が狭いためです。
 多くの文字を記憶しようとして視線を動かそうとしても、文字がすぐに消えてしまうので、瞬間的に注意を向けた範囲しか想いだせないのです。
 もし注意の範囲を全体的に広げようと、瞬間的にすべての文字に注意を向けようとすると、注意がどの文字にも向けられないというような結果となり、ひとつも想いだせないという場合すらあります。

 すべての文字を想いだそうとせず、最初から一番上の行の4つの文字に注意を向けてみれば、注意の範囲が限定されるので4つの文字を記憶でき、ほかの行の文字の一つか二つをおまけに記憶できるかもしれません。
 注意の範囲がしぼれれば記憶できるというのは、下のように文字を詰めて一行にしてみると分ります。
 文字数は6個となりますが、二十分の一秒の表示でもでも6個の文字をすべて想いだすことができます。
 日本人の場合はアルファベットの大文字になれないため記憶しにくいのですが、右の図のようにひらがなを使ってみれば実感できます。

 スパーリングは、単に文字を見せるだけでなく、文字を表示した直後に文字の位置する行を示す音を出して、その行の文字をおもいださせるという実験も行っています。
 たとえば「ぴっ」という音なら一行目、「ぴぴっ」という音なら二行目、「ぴぴぴっ」という音なら三行目と決めておき、文字を瞬間表示した直後に音を鳴らします。
 そうするとどの音を鳴らしても、その行にある4つの文字のうち3つまでを思い出すことができたそうです。
 4つのうちの3つですから75%ということで、音を鳴らさない場合は12個のうちの4.5程度で40%弱ですから部分的な記憶の再生率はあがっています。

 この実験で、音は文字が消えてから鳴るので、注意が向けられるのは表示されている文字でなく、瞬間的に記憶された一時的記憶です。
 見たときに注意が向けられていなかった文字でも、音が鳴って注意を向ける手がかりが与えられると、意識に入ってくるというということです。
 つまり注意を向ける何らかの手がかりがあれば、瞬間的に見た文字も記憶に結びつき、意識されやすいということです。
 
 


一目で読み取れる文字数

2007-12-11 23:37:58 | 文字を読む

 図の上の例で、一行の文字数は32文字ですが、これはA5版の本が36~38文字であるのと比べるとやや少なくなっています。
 それでも一目で一行を読み取ることはできませんから、途中で何度か視線をとめて注視する必要が出てきます。
 これに対して、下の左の例では一行が16文字と半分になっていますが、この場合は何とか一目で読み取ることができるのではないでしょうか。

 瞬間的に認識できる文字数は4つ程度ともいわれていますが、これは独立の文字単位でのことで、単語あるいは文節単位ではありません。
 文字を読みなれてくれば一文字一文字読むということはなく、単語または文節単位で文字をとらえています。
 たとえばこの文章の例で言えば「オキアミは 南極海周辺で 餌を 取る 大型の鯨や アザラシ、 魚など 多くの、、、」というふうに文節単位でとらえる事ができます。
 また単語単位であれば「オキアミ は 南極海周辺 で 餌 を とる 大型 の、、、」と捉えることができます。

 一目でとらえられるのが、 中心視野で捕らえてはっきり読み取れる文字数は7字程度とされているのですが、これは文字単位でとらえていて、語句単位ではありません。
 4つの文字までということでなく、4つの文節までということになれば、「オキアミは南極海周辺で餌を取る」までを一目で読み取ることができるのではないかと予想できます。
 たまたまこの場合は一行16文字を一目で読み取るということになるのですが、これは視幅が16文字までも一目で見ることができるほど広い場合です。
 つまり、視幅がある程度以上であれば、4文節までは瞬間的に読み取ることができると考えられます。
 もし単語単位で4つまでということなら「オキアミは南極海周辺で」となり、この場合はたまたま、11文字となって右の図の一行目を読み取るということになりますが、この程度であれば少し意識すれば一目で読み取ることができます。

 新聞記事の一行の文字数は、今ではどこも11文字となっていますが、かつては15文字でした。
 もともとは紙の節約のため文字が小さかったのですが、文字数が少なくなったのは文字を大きくしたためです。
 これは高齢化に伴って、文字を大きくしないと、読みにくい読者が増えたためですが結果的には、より一目で読み取りやすくなったといえます。
 雑誌や映画の字幕は一行15~20文字程度で、これも映画の字幕はすぐに消えるので一目で読み取れるようになっています。
 いずれも4文節程度は一目で読み取れるようになっていると、文字の読み取りは楽にできるようになっているのです。
 
 


縦書と横書き

2007-12-10 22:38:16 | 文字を読む

 日本語の横書きは読みにくいし、眼が疲れやすいという意見があります。
 ほとんどの新聞や雑誌がいまだに縦書になっているのは、横書きが読みにくいためで、もし横書きにしたならば新聞などは売れないなどといわれたりします。
 単に慣れの問題ではなくて、日本語の場合は横書きにすると、生理的に疲れるというのです。
 
 この意見は経験に基づいているのでしょうが、経験に基づく実感というのは慣れからきている場合が多いので、もしかするとやはり、単なる慣れの問題なのだという可能性があります。
 たとえば上の図のように一行の文字数を同じにして縦書と横書きの文を読んでみます。
 新聞と同じ1行11文字としてありますが、横書きにしてもさほど読みにくいという感じはしないのではないでしょうか。
 
 横書きでも1行11文字程度だと、視線を横に動かさないでもよみとることができるので、次の行に視線がすぐに移るため、自然と縦方向に視野が広げられます。
 普通のA5版の本の場合のように、1行の文字数が36~38文字もあれば、一目で1行を読み取ることができないと、視線は横に動くので上下の視野が狭くなり、焦点距離が固定しがちになります。
 その結果眼が疲れたり、読みにくいと感じるのですが、このように1行の文字数が少なくなれば読みにくさは減るのではないでしょうか。
 
 下の図の横書き文は1行25文字なので、まだ一目では1行を読み取ることは難しいかもしれませんが、それでも36字以上の場合と比べれば文の見通しがよく読みやすくなっています。
 新書版の本では横書きの場合、1行の文字が27字程度が普通のようですが、もう少し少なくして、22~24字程度にすれば読みやすくなるかもしれません。

 一目で読み取れる文字数は横書きの場合のほうがやや多いので、1行の文字数があまり多くなければ、視線を横に動かさずにすみ、次に続く行が目に入りやすくなるので文の理解がしやすくなるという利点もあります。
 縦書でも横書きでも1行の文字数が多くなると、一目では把握できないだけでなく、無意識のうちに注意の幅が狭くなってしまいます。
 1行の文字数が多いほうが、一目で把握しようとする文字数が多くなりそうな気がしますが、実際はある程度限定されているほうが、把握できる文字数が多くなります。

 


二点同時視で視幅を広げる-2

2007-12-09 23:17:12 | 文字を読む

 左側の図を見ると6本の縦線は垂直線なのですが、少し斜めに見えます。
 心理学の本によく紹介されているツェルナーの錯視図というのですが、なぜそのように見えるか説明されることはあまりありません。
 上下にある●の左右にある2本の線について見ると、交差している斜めの線に上の部分が手前に見え、下の部分がおくにあるように見えます。
 上の●の部分が目に近く見え、下の●部分が遠くに見えると感じるため、上の部分を見るときは無意識のうちに焦点が近距離に合わせられます。 
 逆に下のほうを見るときは焦点距離が遠めに合わせられます。
 その結果上のほうがやや小さく見え、下のほうがやや大きく見えるのですが、焦点の調節は無意識のうちに行われるので気がつかないのです。
 
 ここで上の●と下の●を同時に見ると両方とも焦点距離が同じになるため、上の部分も下の部分も同じ大きさに見えるので、2本の縦線は垂直に見えるようになります。
 どうしても縦の線が斜めに見えてしまうというのは、無意識のうちに視線を動かしてしまうためです。
 
 同じように上下の●を同時に見ても右の図の場合は6本の横線は水平に見えず、やや斜めに見えるかもしれません。
 この場合は左右で左の黒丸と右の●部分で左が手前に、右が奥に感じられるために左が狭く見えるので、横線が斜めに見えるのです。
 そこで上下の●を同時に見るのでなく、左右の●を同時に見て視線を動かさなければ、横線は水平に見えるようになります。

 どちらかといえば右の図のほうが難しいのは、左右の●を同時に見るということが、左右に目が付いているため容易にできるため、つい視線を動かしてしまうためです。
 左の図の場合は上下の視幅を広げるので、上下の●を同時に見るのに注意が集中され、視線を動かさずにすむため縦線は平行に見えるのです。

 文字を読むとき、横書きの文字を読むほうが疲れやすいのは、慣れの問題と思われがちですが、うえのような結果から考えると、目の使い方にも原因があるようです。
 横書きの文字を読むときは、横の視幅を広げようとしなくても目が左右についているため、ある程度視幅は広くなっています。
 そのため焦点距離を近くしたまま文字を読み続けがちで、伏目のまま固視に近い状態を続けがちです。
 そのため楽な見方をしているつもりなのに、毛様体筋は緊張して眼は疲れやすいのです。
 横書きの文字を読む場合でも、縦方向にも視幅を広げたほうが眼を疲れさせないばかりでなく、文意を把握する上で有利なのです。


二点同時視で視幅を拡大

2007-12-08 22:12:37 | 文字を読む

 左側の図では、左側の水平線と右側の水平線は、延長してもつながっていないように見えます。
 また、右の図では上の垂直線を下に伸ばしても下の垂直線とつながらないように見えます。
 心理学で言うポッケンドルフの錯視というものですが、これは必ずそう見えるのかというと、そういうわけでもありません。

 たとえば左の図を見る場合、上下の二つの丸印を同時に見つめてください。
 そうすると左右の二つのの水平線は、同じ直線上にあるように見えるはずです。
 もし上下の丸印を見ているつもりでも、水平線のほうに目がいってしまうと水平線は延長しても食い違って見えるかも知れません。
 つまり、上下の二点を同時に見ることができているかどうかは、日本の水平線が同一直線上にあるように見えるかどうかで分ります。
 したがって、上下二点を同時視しようとして、うまくできたかどうかの判定基準となります。

 なにげなしにこの図を見れば、斜めの線と水平線が交わっているところに注意が向きます。
 視線は複雑なところ、細かいところに向く傾向があるからですが、そのため注意は狭い範囲に限定され、視幅はせまくなります。
 視幅を広くしようとして上下二点を同時視しようとするのですが、なれないうちはうまくいきません。
 二点を同時に見たつもりでも片方に注意が集中してしまったりするのですが、目を見開いて同時に二点に注意を向けるうちにうまくいくようになります。
 
 実際は上下の二点を同時に見つめる代わりに、水平線の左端と右端を同時に見つめることによっても二つの水平線はつながって見えます。
 二本の水平線の左端と右端を同時視することによっても、視幅は拡大されるので同じような効果が得られます。
 しかし目は二つあって横に並んでいるため、視幅を広げなくても水平線の両端が見えてしまうので、こちらのほうがやりにくいでしょう。
 右の図でも上下の垂直線は斜めの線と交差している部分に注意が向くので、錯視が起きますが、上下の丸印を同時に見れば二本の垂直線は同じ直線状に見えるようになります。

 二点同時視の目的は視幅の拡大にありますが、上下の視幅を広げて見ることができるようになると、縦書の文字を読むとき、より多くの文字が視野に入るので、文章の意味が理解しやすくなります。
 それだけでなく、視幅を狭くしたままで文字を読むときより、毛様体筋の緊張が少なくなるので眼が疲れにくくなるのです。
 

 


サルの視覚記憶能力

2007-12-04 22:39:51 | 文字を読む

 瞬間的な視覚的記憶はチンパンジーの子供のほうが、大学生や大学院生よりも優れているそうです。
 上の図は松沢哲郎「進化の隣人ヒトとチンパンジー」(2002年)で紹介されている実験の例です。
 スタートのボタンを押すとスクリーンに数字がいくつか示され、小さな順に数字にタッチして選んでいく課題です。
 最初に一番小さな1にタッチすると右側の図のように1は消えほかの数字は白い四角で隠されます(左下の図)。
 つぎに二番目に小さい3が隠されている白い四角にタッチすれば、その四角が消える(右下の図)というふうに小さい順にタッチしていきます。
 数字がスクリーンに現れてから、最初に一番小さい数字を押すまでの時間を時間はチンパンジーのアイの場合で0.7秒、大学院生がやった場合は1.2秒かかったそうです。
 
 つい最近行ったテストの場合は、4歳の子供のチンパンジーとその母親を使ったもので、数字をごく短い時間スクリーンに示した後数字を隠し、小さい順にタッチさせるというものです。
 表示時間を0.65秒、0.43秒、0.21秒とだんだん短くしてテストをすると、表示時間がどの場合でも正答率は子どもチンパンジーが最も高く、0.21秒では、子どもチンパンジーの76%に対し、大人チンパンジー21%、大学生36%だったそうです。
 数字を増やして9個にした場合、最も優秀だったチンパンジーは表示時間0・7秒で正解したが、同じテストをした大学生9人は全員が失敗したそうです。
   
 見たものをそのまま記憶するという、いわゆる写真的記憶という点ではチンパンジーのほうが人間よりも優れているというわけです。
 しかし類似の実験ではチンパンジーは、数字が2,4,6,8,10のように規則性があって順番に並んでいても、成績が同じだそうです。
 これに対し、人間の場合は規則性を見て取って、はるかによい成績を出すことができます。
 チンパンジーの場合は見たものをそのままでしか覚えられないのに、人間の場合は見たものに意味を見出そうとすると解釈することができます。

 人間が文字を読む場合も、視覚的に見たままを写真のように記憶するのではなく、意味として記憶しています。
 印刷の校正をするときに、意味を考えずに一字一字比較をしていけば校正ミスはなくなるのですが、普通の人は語句で比較をするので、つい間違いに気がつかなかったりするのです。
 写真記憶のように見たままに記憶していれば校正ミスはなくなるのでしょうが、特別な訓練をしなければ、意味で記憶しているので文字の間違いを見落としてしまうのです。
 しかし文字を読む上では、写真記憶が役立つわけではないので、チンパンジーより記憶能力が劣っていても差支えがないのです。


漢字カタカナひらがな交じり文

2007-12-03 22:49:35 | 文字を読む
 「サイタ サイタ サクラガ サイタ」というのが明治時代の小学校の教科書の内容です。
 なぜか最初にひらがなを教えようとするのではなく、カタカナを教えようとしていたようです。、
 江戸時代の寺子屋ではひらがなと漢字を教えていたのですから、カタカナを最初に教えるのが伝統だったわけではありません。
 寺子屋の読み書きは、活字ではなく毛筆の筆記体の読み書きだったのですが、これを否定しようとしたのかも知れません。
 漢字とカタカナを使う文章が正当である、という意識が役人の中にあったためなのでしょうか、明治になってから作られた法律などは「漢字カタカナ交じり文」で作られています。

 ところが読む側からすると、「漢字ひらがな交じり文」に比べると、「漢字カタカナ交じり文」はかなり読みにくいものです。
 上の図のような簡単な文章でも、「漢字カタカナ交じり文」のほうは、視線が滑らかに進まず引っかかりがちです。
 「漢字ひらがな交じり文」のほうは漢字が直線的、ひらがなが曲線的なため、自然と単語の区切りが示され、文章の構造が把握しやすくなっています。
 「漢字カタカナ交じり文」のほうは、単語の区切りが見えにくいのでつい狭い範囲に注意が集中され、視野が狭くなりがちです。
 そのため逐次読みになり、意味が分かりにくくなるのです。

 カタカナは漢字の一部分を取り出したものなので、外見的には漢字と同じように直線的で、ひらがなよりむしろ漢字に近い形です。
 そのため漢字カタカナ交じり文は、同じような形の文字が並ぶことになり、ごちゃごちゃした感じで単語が見分けにくくなっています。
 カタカナはカナではあっても、形状は漢字の親戚なので、図の三行目のように漢字をカタカナに変えれば、それなりに読みやすくなっています。
 「ちきゅうがじてんしているのでたいようがひがしからのぼる」とか。「チキュウガジテンシテイルノデタイヨウガヒガシカラノボル」といったように、ひらがなばかりとか、カタカナばかりの文章に比べればはるかに読みやすいのです。

 ひらがなだけとかカタカナだけとかの文は、分かち書きをしないと読みにくいのに対して、「漢字ひらがな交じり文」は分かち書き的な効果があります。
 ところがカナだけの文章でも、「カタカナひらがな交じり文」は、上の例で見たように、分かち書きの効果があります。
 そのため外来語をカタカナで書いた場合も、カタカナ部分が準漢字となってひらがなと区別されるので、「漢字カタカナひらがな交じり文」が読みやすい形になって自然に普及しているのです。

総ルビの読みにくさ

2007-12-02 22:23:51 | 文字を読む

 上の図は最近の新聞記事に総ルビを振ってみたもので、その下はルビを振らない原文です。
 ルビを振ったほうは少し行間を空けていますが、それでもすべての漢字にルビを振るとごちゃごちゃして読み取りにくくなることが分ります。
 読み取りにくい主な原因は、ルビがない文に比べルビつきの文を読むときは自然に視野が狭くなって、一目で読み取れる範囲が狭められていることです。
 すべての漢字にルビを振ってあると、小さなルビにどうしても注意が向けられてしまいます。
 細かな文字にはどうしても注意が向けられてしまい、結果として文字を読むときの視野が狭められてしまうのです。
 読むときに視野が狭められてしまうと、固視によって眼が疲れやすく、近眼になりやすいので目の健康にはマイナスです。

 上の例は現代の新聞記事なので、あまり難しい漢字は使われていないのですが、それでもカナと漢字の数の割合を見るとほとんど1:1つまり漢字の率が50%近いものです。
 普通に読みやすい文章は、漢字の比率が30%程度とされていますから、50%近くともなれば読みにくいほうです。
 もともと少し読みづらい文ですが、総ルビを振ると非常にうるさくなってしまい、見通しの悪い、読みにくい文になっています。
 こうしてみると戦前に山本有三がルビ廃止の案を出し、陸軍もそれに賛成したというのも分る気がします。
 すべての漢字にルビを振るというのは、印刷側からしても大変な作業であるだけでなく、読む側にしても多くのエネルギーを要し、また目を悪くする元にもなったのですから、ルビ廃止論ももっともだったのです。

 戦前は大衆向けの新聞や雑誌は大体総ルビつきでした。
 難しい漢字が使われたのと、漢字を知らない人が多かったためすべての漢字にルビが振られていたものです。
 現代では大幅に漢字が制限された上に、教育が普及したので、単に漢字の読み方を示すルビはあまり必要がなくなっています。
 言葉に同時に別の意味をもたせようとしたり、外来語の漢字訳にカタカナ語を添えるような二重表現にはルビは便利な方法です。
 こうしたものは文章の中に多くはないので、文全体を読みにくくするほどにはなりません。
 ルビの廃止論とか、擁護論といった対立は総ルビのようなものを考えるためで、漢字の読み方としてのルビは使わない原則とすればよいのです。
 


漢字単語を一目で読み取る

2007-12-01 23:15:39 | 文字を読む

 現代の日本文は漢字かな交じり文で、英語のように分かち書きになっていなくても単語の切れ目が分るので読みやすくなっています。
 上の図は長い漢字熟語の例です。
 使われている漢字自体は難しくないのですが、文字数が多くて長い単語になると一目で見ては意味が分かりにくくなります。
 「自動車部品」ぐらいは五文字程度なので瞬間的に意味が分かると思いますが、「横綱審議委員会」と七文字になれば、この単語を見慣れていなければ瞬間的に意味を読み取ることは困難です。
 「自動車部品」でさえも「自動車の部品」のように、間にひらがなが入って単語の構造をはっきりさせたほうが読み取りやすく、「横綱を審議する委員会」のほうが「横綱審議会委員会」より分りやすくなります。

 漢字は極端に言えば、組み合わせていけばいくらでも長い単語を造語することができるので、やたらと長い単語を作ってしまう人もいます。
 読むほうの立場から言えば、七文字を超える漢字単語はとても読みづらいのですが、書くほうはまとまりがよいので、つい漢字を羅列して読みにくい単語を作ったりします。

 「組織利益最優先主義」は「組織の利益を最優先する主義」、「特殊戦後型日本式経営方法」は「特殊な戦後型の日本式の経営方法」としたほうが長さは長くなっても読取りやすくなります。
 「高価格維持官民癒着談合体制」も、「高価格を維持する、官民が癒着して談合する体制」とでもしたほうが分りやすいのです。

 カナばかりの文や、漢字ばかりの文は切れ目が自然に判断できないので非常に読みにくいのに、適度に漢字が交ざっていると分りやすいのです。
 普通の文章では漢字の熟語というのは、長くても四字熟語ぐらいなので、読取に苦労するということはありません。

 ところが新しく作られ漢字た熟語というか、単語の中には長いものがあって、一目では意味が読み取りにくいものがあります。
 ニュースの中に出てくる「防衛装備品調達」とか「米原油先物市場」といった単語になると、これらの言葉に慣れていないとパッと見ても意味が頭の中に入りません。
 漢字が七文字も続くと一度に意味を読み取ることが難しいのは、すべての漢字を読み取った上で組み合わせた意味を解釈しなければならないからです。
 これが「防衛装備品の調達」とか「米国の原油の先物市場」というふうに表現されていれば、少し長くなっても意味が分かりやすく、文章は読みやすくなります。
 
 漢字をつなげすぎて長い漢字単語は読みにくいといっても、現実にはなくならないので、読むほうが練習して意味を読み取るしかありません。
 少なくとも七文字程度の漢字熟語は一目で読み取れる練習をしておくと便利です。
 七文字程度の漢字単語の読み取る能力ができれば、たいていの漢字単語は四文字以下なので、さらに読みやすくなり無駄にはなりません。